※自傷、児童虐待、私的制裁等の展開が含まれます。
穂波が育ったのは、常闇の中だった。
これは正確な表現ではない。しかし自身の生い立ちを端的に語るとするならば、やはり始まりは闇の中だった。
深い水底のような色をした闇の中――。
穂波は、物心ついた時から青い霧の奥にひっそりと形成された集落の中で暮らしていた。
そこは所謂スポットと呼ばれる場所の中心地にある。とある山の頂に近い場所だった。
青い霧は多くの大気と混ざると濁ってしまうが、霧の純度が高い発生地一帯は不思議と霧の向こうが透けて見える。
常に、青いインクを垂らした水槽の中のような視界。
霧が常に湧き上がっているため集落のどこに居ても風を感じる。風力を利用して僅かばかりの灯りを保ち、生活の場のあちこちが青白い光で照らされているが、それでも常に薄暗かった。
純度の高い霧と大気の境界線は必ず霧が濁ってしまうので、それが膜のように集落を覆い、光を閉ざしてしまうのだ。
何故この場所が青い霧に包まれているのかは、穂波は知らない。
一説によると、気が遠くなる程古い時代に、ヒトが不老不死になれる秘薬がこの世に存在したらしい。その薬を使わずに捨て去ってしまおうとした者がいて、薬をいくつかに分けて人に託し、各地の山の奥まで持って行って燃やすように言った。
しかし一度火を点けた秘薬は水を掛けても突風にさらされても燃え尽きず、不気味な青い煙を出し続けた。塵となり、土と混在した後も秘薬の力は失われず、それが染み渡った土地からは現在に至っても煙が上っているという――。
それが穂波の聞いた物語だった。
実際にそのようなことがあったとは思っていない。現実を元に作った後付けの伝説に違いないと思っていた。
この集落では時間が止まっている。正確には、そこに暮らす人々の体の時間が際限なく引き伸ばされ、永遠に近い時間を生きている。
純度の高い霧には、まさに不老不死の秘薬と似た力があった。
ここで生活している穂波は五歳前後の子供の姿をしているが、実際にはもう自分では数えきれないほどの年月を過ごしている。
青い霧の副作用なのか、それとも長い時をぼんやりと過ごしすぎたせいなのかは分からないが、この集落に身を置いていると心や体が鈍くなって、時間の感覚も記憶も薄れていく。
外部からこの集落に穂波を連れてきた者がいるはずなのだが、それも誰だったのか忘れてしまった。
体は水や食事を必要とせず、人々は殆ど眠っているか、ぼんやりと起きているばかりだった。何かに活動的なのはほんの一握りの人間と、この集落に来て日が浅い者たちだけ。
穂波も、正確な数字は忘れたとはいえそこまでの古株ではなかった。
何も無いここでの生活に退屈し、適度な刺激を求めたい気分の日が年に何度かあった。
そんな時は他の子供――の姿をしている者――たちと一緒に、こっそりと霧の境界線まで降りに行った。
澄んだ霧は吸い込んでも問題ないが、濁った霧は中途半端に身体に作用して有害であるという。感覚も鈍くなっているので誰一人寒さも痛みも感じないが、一種の肝試しのような感覚で行って帰ってくる。
時には境界線のもっと先まで降りて、外部の人間と出くわさないか試したりもした。もし出会ったら、声でこちらに招き寄せてみようという“遊び”を提案した者がいて、穂波もそれに混ざっていた。
そうしていたのだが、ある日その危険な“遊び”をしていたことが古株の人間たちにばれ、一名ずつ呼び出されることになった。
穂波が向かったのは「花園」と呼ばれる屋敷である。寒冷な霧の中の環境なので、そこに花が咲いているわけではない。
屋敷の主が変わった人間で、度々霧の外の世界まで降りては妙なコレクションを持ち帰って屋敷中に飾っているのだ。それがどれも花にまつわるものなので、ここは人々から「花園」と呼ばれていた。
「香流(かおる)はまた花を探しに行ったよ。今度は紫陽花を集めたいらしい。私が戻って来たというのに、すぐに行ってしまった。相変わらずだ」
屋敷の主は不在だった。穂波を待っていたのは、主の友人であるという見慣れない人間である。
収集物に囲まれた応接間に通され、テーブルの両端に置かれた椅子に座って向き合う。その人間は、テーブルに両肘をついて指を組んだ。
「境界線の先まで降りて、素性の分からない外部の人間を無意味にここまで連れて来ようとしていたらしいじゃないか。この場所が明るみになることは避けなければならない。ここにいる人間はそれをよく理解していたと思っていたよ。……だから、お前や、お前と一緒に境界線に降りていた者たちには、頭を冷やしてもらおうと思う」
大人が一人横たわれる程度の狭い部屋に籠り、ざっと二百年間反省する。それが穂波に提示された罰であった。
そんな期間閉じ込められていれば、新しい刺激を求める心も自ずと無くなるだろう。
今までのように殆ど眠って過ごすのは変わらないのだから、穂波にとってはあまり罰とも言えないものだった。もし退屈を感じる時期が再び訪れたら、酷く苦しむことになるのかもしれないが。
穂波が話を受け入れようと思っていると、そこに意外な話が続いた。
「だけど、お前には個人的に頼みたいことがある。それを引き受けてしっかり果たしてくれるのであれば、幽閉は無しにしてもいい」
「何、その頼みっていうのは……」
穂波は一応内容を聞いてみることにした。
「ハルカという子供をここに連れて来て欲しい」
そう言って穂波の目を覗き込む相手は、飾水と名乗った。
穂波は飾水という名に聞き覚えがあった。数十年前までこの集落で暮らしていた古株の一人であったはずだ。
飾水は最近まで霧の外の世界に降りており、美術品を作って過ごしていた。向こうには色彩も光も自然も資源もあり、飾水にとっては過ごしやすい環境だった。
しかし子供を迎えて育てるようになってからは、こちらの集落に戻る機会を伺っていたらしい。
この集落に人が増える方法は、外部から人を連れ込むしかない。だが住人が皆不死であるため、あまりにも多くの人間は受け入れられない。人をここまで連れて来れる特殊な素質を備えた者が、外の世界から自分が特別だと思う一人を選び出して来ることになっている。
特殊な素質とは、催眠能力を用いて相手と一時的に繋がる能力だ。特に強い催眠状態となると強制力を発揮することが出来、濁った霧の中でも相手とはぐれず、確実に集落まで連れてくることが可能だった。
この世界の人間にごく稀に発現するこの能力の持ち主は、実はこの集落に高い割合で存在する。穂波はここへ連れて来られた経緯を忘れてしまったが、恐らくその素質を持った一人だからなのだろうと考えていた。
飾水は自分の子であるハルカを特別な一人として選び出した。
そしてハルカと繋がるために、ある程度の意思疎通ができ、長い距離を歩ける年齢になるまで待っていた。
ハルカが六歳を迎えた時に頃合いだと思い、能力を使って深い催眠にかけながら集落までのルートを一緒に辿っていたのだが、その時に予期せぬトラブルが起こった。
「急に強い拒絶を表して、向こうから繋がりを断ち切られた。繋いでいた手も振り解いて、来た道を一目散に走っていくんだ。あの幼い子にそんな力があるとは思わなかった。私はハルカを完全に見失ってしまった――」
繋がりを切ってしまう程の強い拒絶。深層心理にその相手を退ける強い感情が焼き付いてしまうので、一度繋がりを切られてしまうともう一度繋がるのは非常に困難であるらしい。
「穂波、お前は繋がるための素質も持っているし、ここに来てまだ百年も経っていないだろう。他の古株の人間よりは外の世界に降りても馴染みが早いはずだし、何より肉体の年齢がハルカと近いので接触しやすい。ハルカを探し出して、ここまで連れてきてくれないか」
「……僕に頼みたい理由は分かったけど、何もヒントが無いんじゃ無理だよ。そもそも濁った霧の中にいて生きてるのかも分からないし」
「霧の研究をしているグラスという機関に潜り込んでくれ。霧の中での救助活動をしているのは主にあそこの人間なんだ。ハルカが助かっていればその記録が残っている」
そのグラスという機関は穂波たちのような能力者を“アンカー”という役職で呼んでおり、日夜適性のある人間を探しているという。穂波がアンカー志望者として現れれば、容易に組織に入り込めると飾水は読んだ。
「何だか、すごく面倒なことを頼もうとしてない?」
「してるさ。でもお前のように退屈した人間にはうってつけだと思った。二百年寝続けるのとどちらがマシかはお前が選んでいい」
もしハルカが死亡していればその証拠となる物を持って帰る。生きていれば接触し、能力で繋がってこの地まで連れて来る。それなりの年月がかかっても構わないと飾水は言った。
「繋がりを切ったってことは、よっぽど行きたくない理由があったんじゃないの? ハルカが行きたくないって言ってたら、僕はどうすればいい?」
「穂波。私が提示した条件は以上だ。ハルカが生きている限りはここに連れて来ることしか考えるな。条件を果たせずに帰って来た場合は、やはり幽閉の罰を受けてもらう」
穂波は暫く考え込んだのちに、その特殊な依頼であり罰を受けることにした。
自分が断れば他の“子供”に話が回ると思うと受けたい気持ちが勝ったし、外の世界に降りることには多少興味があった。二百年眠っている間に外への興味すら失ってしまうかもしれないと思うと、外へ行く機会は今回しか残されていないような気がした。
飾水の狙い通り、穂波がグラスに潜り込むのは容易だった。
霧の中から都市方面へ降りた穂波は、そこへ置かれた支部へ行って早速自分を売り込んだ。
簡単なテストや脳の検査を受け、穂波にはアンカーの資質があると機関に承認を受けた。
小さな子供が一人で現れたことはかなり心配され、怪しまれたのだが、「色々あって、話したくないんだ」と暗い顔を見せると、それ以上詳しく素性を探られることは無かった。
しかし幼かったためにアンカーとして働くことはまだ出来なかった。施設内を動き回ろうにも目立ってしまうため、ハルカが救助されたかどうかの情報が眠る部署の奥までは、辿り着くことがどうしても叶わない。
穂波は支部内でしばらく寝泊まりをしていたのだが、グラスが管理している児童養護施設――霧に関わる事件により身寄りの無くなった子供などを主に受け入れている――に移る話が出ていた。
それが霧の外へ出て一か月程経った時の話だ。
青い霧を取り込まなくなった穂波の身体に、少しずつ変化が表れ始めた。
まず、空腹感や喉の渇きを感じるようになった。それまでは無理に口に運んだり、食べた振りをしていたのだが、いつしか自分から食事を求める気持ちが湧き、味すらも分かるようになった。
穂波は自身の衝動的な欲求の高まりに酷く動揺する。これまで忘れていた分を取り戻すかのように食欲旺盛になったが、一方で食事を摂る自分を気持ち悪く感じて仕方がなかった。
食べてはそれを吐き戻し、そんなことを繰り返す自分を激しく嫌悪する。感情の振れ幅すら今まで体験し得ない激しさだった。おかしくなりそうだった穂波は、自傷行為をして何とか自分を保っていた。
痛覚も明確に表れるようになっており、傷の治りも集落に居た頃とは比べ物にならない程遅い。穂波は自分のつけた傷に身悶える。
身も心も狂いつつあることを自覚するも、そんなことを周囲の職員に相談するわけにもいかなかった。穂波が霧の奥地から来たことを他の人間に勘づかれてはいけない。ましてや霧に興味がある人間たちに。
ついには爪や髪も伸び始めたことに気が付き、ますます自分の身体が気持ち悪くなった穂波は狂乱する。
最早、ハルカを探し出す余裕など無くなっていた。
飾水はこれを知っていたのだろうか。これが、生きるという感覚。二百年眠る方がよっぽどましだと言える、地獄のような苦しみ。集落に逃げ帰る心身の余裕も無く、穂波は泣き叫び、暴れ、弱っていった。
その異常さはすぐに職員の知るところとなり、穂波は都市郊外にある病院で長い入院生活を送ることとなった。
穂波の運ばれた病院は、街の喧騒からぐっと距離を置いた場所にある。病室の窓からは遠くに青い霧の立ち込める山と森が見えた。
穂波は入院から二年近く精神が落ち着くことはなく、しばしば癇癪を起こし、まともに治療を受け付けなかった。自傷行為もやめられず、ストレスで頭髪が多く抜け落ちた。
酷い時は個室の扉に「入室拒否」の表示を提げて、様子を見に来るグラス職員を追い払った。むしろ、そういう日が殆どであった。
入院三年目頃から、未だ不安定ではあるものの少しずつ現状を受け止めるようになり、配膳された食事に少しだけ手を付け始めた。治療中に抵抗を示すことも徐々に減っていく。
諦めの感情が穂波の中に漂い始めた。
肉体の加齢はすぐに常人と同じスピードに戻るわけではないらしく、実際の半分かそれよりもやや遅い速さで加齢し始めているようだった。
平均身長と比べて自分の年齢に検討をつけるしかなく、周りから自分が不気味に見えていないか穂波は不安である。食事をまともに摂れていないため、多少平均より幼く見えたとしてもきっと大丈夫だろう、と自分に言い聞かせた。
入院三年目の後半から、穂波が多少は落ち着きを取り戻したということでボディーガードを名乗る人物がグラスから送られ、病室に訪れるようになった。
「立織(たており)と申します。連絡は届いておりませんでしたか?」
穂波は未だに他人の入室を拒む日が多かった。書面でも連絡が届いていたかもしれないが、手元に届く封筒はどれも開封せずに放置していた。看護師が以前そのような話をしていたような気もするが、まともに聞いていない。
立織と名乗った人間は四十代に見えた。挨拶に来たその日からしばしば穂波の病室に現れ、身の回りの世話や介助を行うようになる。
日中の時間の多くに立織が入り込むようになり、穂波は気が休まらなかった。献身的に接してくる立織は看護師たちと同じく悪い人間ではないように思えたが、アンカーの警護をするボディーガードという存在自体が穂波にとってはどうでもよかった。
ある日、立織は自分の養育しているミナトという子供を病室に伴って来た。
立織はベッドの前までやって来て、子供の肩に手を回して紹介する。
「うちの子供のミナトといいます。穂波のお友達になれればと思って。ほら、挨拶は」
「……ミナトです。初めまして」
ミナトは大人しい雰囲気をまとっていた。今年で十二歳になるという。学校が終わった後に立織に連れられてここへ見舞いに訪れたのだった。
病室に籠りきりの穂波に対して、同じ子供の知り合いが出来た方がいいのではないかと立織は考えたらしかった。
しかし穂波にとっては、やはりどうでもいい存在だった。
病院の看護師に世話を見てもらうのと同じような感覚で、特別な感慨もなく二人に接した。
そんな調子で入院生活は四年が経過し、五年目に突入した。
霧のない世界に来て丸四年以上が経過したが、穂波は二歳程度の成長しかしていないように思われた。本来ならば九歳前後になっているはずだが、未だ七歳前後の姿といったところだ。
そろそろ怪しまれる頃だろうか。成長には個人差があるということで気にも留められていないのだろうか。穂波は人の視線が気になって仕方がない。最初の頃よりも体調は随分ましになってきているが、時折酷く心が不安定になり、個室に引き籠った。
この社会の同世代の普通の子供がどんな様子で育っていくのか、穂波は知る機会がない。院内ですれ違う他の子供も、見舞いにやって来るミナトのことも見知ってはいるが、あれが世の中の平均ではないだろう。
そんなことを考えていた折、ミナトと病室で二人になる時間があった。立織は医師と面談をするためか何かで席を外していた。
お互いに口数が多いわけではないので、ミナトは黙って穂波の髪に櫛を通していた。髪は以前ほど抜け落ちなくなっている。ただされるがままに頭を掻かれていると、穂波へ伸ばされたミナトの腕の袖口が、重力で少し下へずれているのが気になった。
穂波は、妙な感覚を覚えて唐突にその腕を掴んで引き寄せ、一気に袖を二の腕までまくった。
ミナトが「あっ」と息を吞む。
露わになった肌には無数の痣のようなものが浮かんでいた。
ミナトは弾かれるように穂波から離れ、すぐに袖を下ろして背に隠すようにする。
「……キミ、僕の見舞いに来てる場合なの?」
思えば、穂波がミナトと自発的に会話するのはそれが初めてかもしれなかった。ミナトを心配するというよりも、単純に疑問だったのでそう問いかけた。
ミナトは穂波と視線を合わせず、ぼそぼそと答える。
「……何でもありません」
「学校でいじめられてるの?」
「いいえ」
穂波はミナトの瞳の動きを見つめた。
「じゃあ先生から?」
「そんなわけ無いじゃないですか」
穂波は、ミナトの瞳に焦点を合わせるようにして視界を絞る。
「立織にやられてるんだろ」
「…………」
ミナトの瞳がぐらぐらと揺れた。否定の言葉は紡がれない。
穂波は、この社会の親子というものがどういう温度感で成り立っているのか分からない。
この世の人類は既に行き詰っており、増えるという選択が取れなくなって久しい。水源や土壌を汚染した霧の力が食べ物などを通してヒトの体に蓄積されていき、生殖能力を奪ってしまうからだ。
今この社会を作っているのは、この時代の到来を危惧した遠い過去の人間たちが残した子孫。未来へ遺された膨大な数の“子供”を少しずつ“解凍”して、滅びの時を先延ばしにしているに過ぎない。
もっとも、子供が尽きてしまうのは何百年も先。土地の縮小に伴って解凍人数を絞れば千年以上も先のことになると言われているので、多くの人々は日頃から意識して過ごしている訳ではない。どうせ手の届かない時間の話だからだ。
無作為に選ばれ解凍された子供は、親になる意思があり尚且つ管理側の審査を通った人間の元へ託される。だからこの社会には血の繋がった親子というものは原則存在しない。見知らぬ他人が親戚であるという可能性は、どこかにあるのかもしれないが。
ある日突然自分の下へやって来る、年齢の大きく離れた縁も所縁もない他人。それがこの世界の親と子の関係である、と穂波は捉えていた。
であるから、暴力を振るい振るわれるというのは、他人と他人というレイヤーで見れば無くもないのだろうと思う。もしかしたら、ありふれているのかもしれない。故にこの世界ではそこまでの問題ではないのかもしれない。
だが、そこには覆しようのない親と子の力の差――腕力の話とは限らない――があるという、余りにも不条理な構造が敷かれているわけだ。
立織は恐らく、穂波の知らないところでミナトを日常的に傷つけている。理由は分からなくていい。理屈があったところでそれが許容される状況などない。
そしてミナトはこの様子だと、その怪我を医者に見せたり他人に助けを求めたりしていないようだった。ミナトはそんなに呑気な子供だろうか。親とも呼べない人間に従順さを見せるほど賢いのに。
ミナトが声を上げて一番損を受けるのは誰だ、立織か。違う。告発で損を被った立織により更なる報復を受けるミナトだ。ミナトはそれを分かっているから何もしない。
訂正しよう。縁も所縁もない他人であるにも関わらず、何故か覆しようのない上下関係が初めから定まっている。それがこの世の親と子の関係だ。
穂波は、急に何もかもが馬鹿らしくなった。
大人から傷つけられている子供が、自傷している自分を看病していることを。
自分の子供を虐待している人間から甲斐甲斐しく世話をされていたことを。
自分もまた親からの依頼を受け、その代理として子を無理やりにでも連れ去ろうとしていることを。
全てが滑稽だと分かった。虚しいだけだった。
穂波は窓の外へ視線を投げ、会話を打ち切った。
ミナトが暴力を受けている件について、穂波はその時を最後に二度と話題に出すことは無かった。勿論、ミナトから話すことも無かった。
穂波はその後も精神が不安定になる度に自傷衝動が湧いていたが、ミナトの腕のことを思い出すと昂った神経が氷のように冷えていく。少しずつ衝動を抑え込める回数が増えていった。
こんな日々を続ける自分のことも馬鹿らしくなり、配膳された食事を大人しく口に運び、決められた時間に薬を飲み込んだ。弱った肉体が元に戻るには、まだ道は遠かった。
そうしてまた、月日が流れていく。
入院して六年目の初夏。一日中雨が降って薄暗かった日。
トリガーは、きっかけとも呼べない程実に些細なことだった。
いつものように立織とミナトが病室に見舞いにやって来て、身の回りの世話と他愛無い会話をする。
そして帰りしなに二人がベッドの傍に並んで別れの挨拶をする。立織がミナトの肩に手を置く。以前からよく見かける光景で、今まで穂波は何とも感じていなかった仕草だった。
しかしその時は穂波の中で、張り詰めた細い糸が遂に裂けたような感覚があった。
何故そんなことで一線を越えたと感じてしまったのかは、穂波自身も分からない。だがもうこれ以上我慢することが出来なかった。
自分で自分を傷つけるのではない、性質の違った衝動が電気のように走り、穂波の身体の末端まで届く。
穂波はおもむろにベッドの上に立ち上がり、二人に近づいた。
突然どうしたのかと穂波を見つめる立織。その肩に穂波は手を置いた。
「握った」
途端、立織の体が凍りついたように静止する。
対象から視線を外さぬようにしながら、穂波は肩から手を離して距離を取る。
立織と繋がり、一気に強制力で動きを制した。ロープで雁字搦めにするかのように。
穂波が能力を使うのは実に久しぶりだった。だが相手が油断していたこともあり、紙切れを握り潰すかのごとく簡単に術を掛けられた。病人だといって能力者を相手にしているということを忘れてしまっていたのか。それが立織にとって命取りとなった。
体の自由が利かなくなった立織は狼狽え、声を上げる。
「穂波、一体何を……」
「もう喋るな」
穂波は立織に発声の意思を失うよう強く念じた。見えない両手で喉を圧迫するようなイメージで。
立織は身動きも取れず、声を出すことも出来ず、驚愕と憤りの色をした目玉をぎょろぎょろと動かして抵抗の意思を示した。
ミナトは目の前で何が起きているのか分からず、視線を穂波と立織に何度も行き来させる。
穂波が力を使って立織を拘束しているのだと状況を理解すると、立織の腕に寄り添い、震えた声で穂波に訴える。
「ほ、穂波、やめて。やめてください……」
ミナトの行動に穂波は呆れかえる。
「何でこいつを庇うのさ。もう限界だよ。僕も、キミも」
「……」
ミナトは逡巡する。しかしやがて腕を掴んでいた手から力が抜け、重力に従ってずるずると下りた。立織から手を離し、一歩距離を置いて顔を伏せる。ミナトは黙ったままだった。
穂波は立織への催眠を切らさないようにしながら、ミナトに言う。
「もう僕は後戻りできない。逃げなよ、どこまでも遠くへ。キミを縛っているものは僕がなんとかしてやる」
瞳に動揺の色を浮かべたままミナトが顔を上げる。
「そんな……。どうするつもりなんですか?」
「どうして欲しい? 屋上から突き落とす? 川を泳いでもらう?」
ミナトは驚き、再び黙り込んでしまった。
冗談だ。別に穂波だってすぐ尻尾を掴まれるような方法を取るつもりはない。こんな親とも呼び難い人間の為に、自分のこの先の時間を棒に振ってしまうなんて馬鹿らしい。
ただ、穂波に多少は分があるだろうアイデアがあった。
穂波はその考えを、立織の意識にも届くようにゆっくりと、静かに言葉にした。
「……霧の中に置いて行ったら、きっと生きて帰って来れないだろうな」
強制力を使って青い霧の漂う森へ連れ込み、その奥で繋がりを解いて穂波だけ外へ帰る。
霧の奥の集落に繋がるルートのいくつかが穂波の頭の中には入っているので、その途中までを使えば穂波は迷うことがない。それほど奥地へ進まなくても、置き去りにした人間は森の中を迷っているうちに凍え、霧を無防備に吸い込んで死んでしまうだろう。穂波も多少霧を吸うことになるが、一、二時間で真っ直ぐ戻ってくればそう酷くはならないはずだ。
立織とミナトは、穂波の言葉を聞いて青ざめる。穂波が握る繋がりに拒絶反応が返ってくるが、そう易々と抵抗を許すほど穂波の力は浅くない。
ベッドを降り、立織を引きずって病室を出ようとする穂波だったが、ミナトが引き留める。
「待って」
「集中が切れる。あんまり話しかけないで」
「……雨が降っています。十分後に非常出口に向かってください」
ミナトはそう言うと、身動きの取れない立織の腰を探る。車の鍵を奪い取ると、一人で病室を飛び出して行った。
通路の人影を注意深く確認しながら、ミナトに言われた通りに非常出口へ向かう。空は雨雲で覆われていることもあり、窓の外はまだ夕方でありながら夜のように暗くなっていた。
今のところ、穂波たちの姿を見られた様子はない。
病室の入り口には入室拒否の札を提げ、ベッドには一見穂波が眠っているような毛布の膨らみを作っておいた。夕食の配膳の時間が近づいているので恐らくすぐに不在がばれてしまうが、何もしないよりはいいだろう。
穂波が行方不明になったことで騒ぎになることも予想できる。帰って来たときの言い訳も考えなければならない。
警戒しつつ非常出口のドアを開けると、黒い傘と藍色のレインコートを持ったミナトがちょうどやって来たところだった。立織の車に積んであったものを持って来たらしい。
棒立ちになっている立織にレインコートを被せ、フードを深く被らせる。これで外を歩いていても、それが立織だということには簡単に気づけない。雨の中の移動は大変だが、人目を避けられるのは好都合だった。
ミナトは傘を差して穂波を中へ入れる。
「嫌ならついてこなくてもいいのに」
「あなただけに手は汚させません。それに土地勘はありますか。私が人気の少ない道を選びます」
確かに、穂波はこの病院周辺の地図には詳しくないし、森までは闇雲に向かおうとしていた。ミナトの案内があった方が確実ではある。
「いいの?」
ミナトは静かに頷いた。
ここから先は穂波とミナトが先に進み、数十メートル後方に距離を取らせた立織をこちらに手繰り寄せつつ進むことになる。端から見れば、自分たちとは無関係な一人がただ歩いている光景にするために。
催眠で余計な動きを一切封じた上で脚だけ動かすように念じるのは容易くはない。穂波は既に疲れを感じているが、これを森の奥に辿り着くまで維持しなければいけない。すれ違う通行人から怪しまれないようにしつつ、二人は出来るだけ足を速める。
穂波が少しでも隙を見せ、立織が催眠から覚めてしまったら前を行く二人はどうなってしまうのか。ミナトは傘を差しながら、もう片方の手で穂波の肩を支えるようにして歩いた。
病院から一時間半程歩き続け、ようやく森の手前までやって来た。都市には多くの人間が暮らしているにも拘らず、霧との距離が近い。スポットのある山からそう離れていないのだから当然であるが、そうとは知らずに都市を発展させてきてしまった人々は退くに退けない状態のままでいる。
日が落ちて霧の色は殆ど分からないが、薄まったものが既に周囲に漂っているはずだった。穂波とミナトはハンカチや服の袖で口元を覆い、少しでも吸い込む量を減らす。
森に入る前に、穂波は立ち止まった。
「ミナトはここで待ってなよ。無事に出られる保証なんて無いよ」
「いえ。あなたが雨に濡れてしまいますから」
二人の他に人の気配は無かった。穂波は見えないロープを引き、立織を自分たちに追いつかせる。
ここまで来ればあと少しだ。穂波はミナトがはぐれてしまわないように服の裾を掴み、森の中へ入って行った。
穂波の暮らしていた集落は妙な場所で、一度訪れてしまえば誰であってもそこまでの道筋を覚えてしまえた。
その場所から穂波まで糸で繋がっているかのように、もしくは磁力で引かれ合っているかのように、自然と方向が分かる。方向が分かると、闇の中でさえ道が見えて来る。
そのルートの二割前後を進んだところで足を止める。ルートから少し逸れるように歩き、適当な場所で再び立ち止まって立織の目の前に立った。今レインコートの下でどんな顔をしているのか、この闇の中では分からない。
微動だにせず立ち尽くす立織からレインコートを剥ぎ取り、その場に投げ捨てる。霧の冷たさが立織の体を啄む。
穂波は、この場では立織の肩に手が届かないので腕に触れ、その体を左右に軽く揺らして別の催眠を掛けた。硬直していた立織の体の力が抜けていき、膝から崩れ落ちて横向きにばたりと倒れた。
目の前が何も見えていないミナトはその音に驚く。
「い、今のは何ですか?」
「……眠らせて、繋がりを解いた。これで当分は眠ったままだ。一度眠ってしまえば、自分がどの方角から歩いてきたのか確かめようがなくなる。そして眠っている間は体温が落ち、無防備に霧を取り込み続ける。例え眠りから目が覚めても、まともに身動きなんて取れない」
穂波は立織が倒れたあたりを教えてやり、足先で探らせてそのことを確かめさせる。ミナトは「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
「じゃあ行くよ、ミナト」
長居をしてはこちらまで凍えてしまう。穂波が以前霧の中を通って都市まで降りてきた時とは全く感覚が違った。穂波の心身はもうとっくにこちらの世界のものになっている。
穂波は服の裾を引き、尾研と共にその場を後にした。
森から無事に外に出た二人だったが、再び急いで病院へ戻らなければならなかった。
病院を出てから三時間弱経過している。既に向こうでは穂波が病室を抜け出したことが発覚していることだろう。
穂波は能力を酷使したせいで歩くのも精一杯だった。その様子を案じたミナトが背負って運ぶと言うので、穂波はその提案に縋る他無かった。ミナトの背にしがみつき、傘を持つのを代わる。
「これで共犯ですね」
穂波を背負いながらも、ミナトの足はぐんぐんと前に進んだ。
背丈も小さく、痩せ細った穂波は、背負っても大した重さではない。
「怖い? 僕のこと」
「ええ、すごく怖いです。……でも、今は神様のようにも思える」
ミナトの声は霧と雨の冷たさに震えていたが、音は高く、気分の高揚が滲み出ていた。
予想に反する買い被り様に、穂波はぼやく。
「ただの人殺しなんだけど」
「あの時、あなたが立織を拘束する直前。私は、私よりずっと小さいあなたに助けを求めていた。あなたに求めたってどうしようもないのに」
穂波はあの時、ミナトの表情を見ていただろうか。自分にどんな顔を向けていたのだろう。印象に残っていない。
ミナトの肩に乗せられた立織の手。そこから繋がる許容できない存在。自分に向けられた白々しい笑み。駆け巡る衝動。たった数時間前のことなのに、遠い昔のように感じる。
「ただ私は、私が今辛くて苦しいということを、ふとあなたに知ってもらいたくなった。――だから、あの時、気持ちが通じたように感じた。もう私は、どうなってもいい」
水溜まりを踏み抜くことも躊躇わず、ミナトは軽快に雨の中を行く。
ミナトの耳には、降り注ぐ雨音が天から贈られる拍手のように聴こえていた。
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