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冷土にて 短編 / 解ける光、融けない悲哀

星影(親方)視点によるアンリの生い立ちと、アンリのニ十歳の誕生日の話。

誕生日のエピソードは本編第一話の時期から約四年前。

短編「幸いは無味に似て」から話が繋がっている部分があります。


 十三年前の一月某日、町から飾水とハルカが姿を消した。

 正確にはいつからいなくなっていたのか明らかではない。星影が飾水たちと会うのは月に数度。飾水は用が無ければ丘を降りて商店街の辺りまで来ることがなかった。

 ハルカとアンリが交流を持ち、商品のやり取り以外にも会う理由が出来たお陰か、以前より接触する機会は増えている方だった。

 二人が町から消えたことに最初に気付いた人間は、恐らく大親方である。

 その日、大親方がアンリを連れて町の小さな公園まで行った。公園ではすでに他の子供たちが雪遊びをしている。大親方はその場に混ざってくるよう勧めたが、人見知りなアンリは嫌がった。

 そこで大親方は飾水の家を訪ねることにし、ハルカにアンリと一緒に遊んでもらおうと考えたのである。こちらから飾水の家へ行くことは珍しいため、アンリも大親方の提案に頷いた。

 しかし向かってみると当ては外れ、飾水の自宅は留守であった。

 買い物にでも出ていて行き違いになったのだろうと思われたが、大親方はそこで妙なものを感じ取った。

「気配が無さすぎた」

 アンリを連れて帰ってきた大親方は、星影にそうこぼした。

「留守だったんだろ」

「いや、気のせいなら良いんだがな」

 後日、ハルカが都市側の森の中で倒れていたところを救助されたのだと知る。

 日中仕事に忙しい星影には知る由も無かったが、商店街の人間が新聞の小さな記載を見せてくれた。

 青い霧の中から救助される者は稀におり、しかし昔から絶えないものであるため、こういった事件が大きく取り扱われることは無かった。

 ハルカの命に別状はないと書いてあるが、同行していた保護者・飾水の行方が未だ分からないという。

 予想だにしない展開に星影は何かの間違いではないかと疑ったが、じきに管理署の職員が家具店を訪ねてきたことで、それが真実であると受け止めざるを得なくなった。

 管理署の職員は飾水の家の取り扱いについて、飾水と関わりの多かった星影に確認を取りに来たのであった。

 その時は事件からすでに一ヶ月以上経っていた。飾水は依然行方不明であるが、霧の中で消息を絶ったのであれば生きている可能性は限りなく低い。飾水の家の所有名義はいずれハルカに移ることになる。

 しかし、ハルカはまだ六歳の子供で他に頼る家族もない。それに加え、飾水の生存を諦めきれず、都市側に残って生活することを決めてしまったのだという。

「あの子は、こちらに戻ってくるつもりがあるんでしょうか」

「そこまでは何とも……。まだ本人の混乱も多いようなので、正式な手続きは当分先になるでしょう。書類上のことはさておき、そちらの懸念通り、ハルカさんの財産の一部が放置されてしまうことが問題です。保管場所の確保が困難なこともあり、こちらは最低限の設備の保全しか手が出せません」

 あの家は当分の間住む者がいなくなる。特にここは冬季に冷え込むため、一年を通しての寒暖差が大きい。人が住まなくなった家は劣化が一層進む。外側だけで済めばいいが、中にある物も無事ではないだろう。

「うちで預かれと」

「そうしていただけるかどうかは追々。まずは、現状の確認をしたいのです」

 星影は、職員が飾水の住居を確認する際の立ち合い人を頼まれた。

 雪がちらちらと舞う中、あの「気配が無さすぎる」と表現された坂の上の小屋へ向かう。大親方はアンリも連れて行こうと言い、星影の部屋で塞いでいた孫の手を引いて来た。

 アンリは幼いとはいえ、ハルカがいなくなった事実に気付いている。

 現実を受け止めきれないアンリは「どうして」「何があったの」とこれまで幾度となく尋ねてきたが、その度に星影と大親方は答えに窮した。

 それは誰にも分からない。この場にいる全員が少しでも真実を知りたいがために、氷交じりの雪に埋まりかけた家の玄関を掘り起こした。

 ハルカは救助された際、自宅の鍵を持っていなかった。故に、この家のドアを正しく開ける方法は残されていない。

 職員は慣れた手つきで電動工具を取り出し、シリンダーを破壊した。今後の管理の都合もあるため、玄関の鍵は取り替えることとなる。

 中の様子はというと、生活の面影が残されておらず整然としていた。

 家具も、小物も、飾水が手掛けたオブジェの数々さえ、壁や床板の向きに沿ってそれぞれの場所で整列している。

 貴重品を確認するためとはいえ、この完成された状態を荒らすのが躊躇われる程だ。飾水とハルカが去る前日までここで生活が営まれていたとは信じ難い。

 異変を感じ取った大親方の勘がああ言わしめた理由を、星影は理解した。

 この家の主はまるで、ここへ戻ってくることは無いと悟っていたかのようである。

 室内だというのに、漂う空気が一層冷え込んだように感じられた。

「誰もいない……」

 大人たちが言葉を失う中、呆然と部屋の奥へ視線を向けるアンリが呟く。

「誰もいないんだ……」

 そう言って俯き、大親方の背に隠れてしまった。

 職員はカメラで部屋の様子を大まかに撮影し、書類の束に色々と書き込んでいったかと思うと、次は部屋のスイッチやレバーに触れて回り、各設備に不具合がないか確認した。

 続いて先程壊した鍵の交換作業をしている間、星影たちは家の中を軽く見て回る。

 部屋の隅に放置された作品たちを見て、大親方がため息をついた。

「あの子たちも可哀そうだな。せっかく作ったものだろうに」

「止せ、一惟(いちい)。私達が預かっても責任が取れない」

「責任を取る者がいないなら、誰かがやらなければならないのさ」

 ハルカが訳もなく被った不幸を誰も埋め合わせてやることなど出来ない。出来るとしたら飾水だろうが、その者はもういない。

「俺達は誰でもなく、誰でもある。この不幸は俺の物だったかもしれない。それともお前か、同い年のこの子か。お前にも思うところがあるだろう」

 事の真相は明らかではない。しかし、子供を連れて都市方面の青い霧の漂う森へ向かうなどという不自然極まりない行動が、飾水の意図したものだったのだとしたら――。

 思いつきはすれど、星影は考えたくもなかった。この家を見てしまったことで、嫌な予感が脳内に明滅する。

「代わりに出来ることがあるとすれば、このくらいしかないじゃないか」

「そう言って際限なく我が事に置き換えるのは悪い癖だ」

 大親方の達観した姿勢に星影は釘を刺す。交流があったとはいえ、ハルカと他人である人間に出来ることは限られている。

「……一人になったあの子をうちで預かれないかとは考えていたさ。ハルカはそうは思わなかったようだが」

 星影は事件を知ってから俄かに懐いていた自分の軽薄な考えを恥じた。出来ることを行うにしても、それがハルカのためにならなければ意味がない。

 星影の言葉に反応したアンリが、じっとこちらを見つめる。アンリの瞳は一瞬期待の色を浮かべたが、すぐに再び影を落とした。

「命を預かることに比べれば、ここにある物を取っておくくらい何ともない。だけどな大親方、それはハルカのためになったとしても……」

 その決断は、ハルカがここに戻ってくるという中途半端な期待をアンリに持たせ続けることになる。それはアンリのためにならないだろう。芽が出るかも分からない種の面倒を見ることに星影や大親方は割り切れたとしても、純粋なアンリにはどういった影響を与えるのか。

「アンリの気持ちも聞こう。そのために連れてきた」

 大親方が自分の背後にいたアンリを見る。アンリはハルカと親しかった。こんなことにわざわざ巻き込むことは無いが、それでもアンリの意思を確認せずには答えを出せそうにない。

「アンリ……」

 星影は不安げに眉を顰めるアンリの前に立ち、屈んで目線を合わせる。

「ハルカはな……、都市の方で暮らしていくそうだ。飾水が見つかるまでこの家に戻るつもりはないだろう。見つかっても、向こうで生活を続けるかもしれない。……だから、ここに帰って来るかは分からない」

「……、え……」

 アンリの顔にかっと熱が集まり、目元が赤らんだ。ハルカがいなくなったことを漸く飲み込めてきたところだろうに、これを突きつけるのは酷い追い打ちである。

 もう聞きたくないと示すように、アンリは星影から視線を外し、潤んだ瞳で床を見た。

「だからな、アンリ……」

「……か、帰ってくるかも、しれないんだよね? だったら……」

「……正直に言おう。私は帰ってくる見込みは低いと思う」

「だったら……、だったら余計にだよ。ハルカがここに居たってことを無いことにしちゃったら嫌だ。俺は嫌だっ……」

 アンリは堪えきれず、顔を覆って泣き出す。星影は立ち上がって、その場に崩れ落ちそうなアンリを静かに抱き留めた。

 ハルカが帰ってくるという期待をアンリに抱かせ続けるのは酷だ。しかし、アンリからハルカとの思い出を奪ってしまうことはより残酷なことだった。

 星影は、自分の行いがアンリやハルカのためになるはずだと祈る以外なかった。芽吹くか分からない凍った可能性をひとつ、星影は背負うこととなった。

 後日、前回と同じ管理署の職員がやって来た。その手には、住居内の貴重品等を必要に応じて移動させることについての同意書、住居保全作業の委任状にあたるものがあり、それぞれハルカとハルカのいる養護施設の担当者のサインがあった。ハルカにはどの程度詳しい説明がなされ、どの程度理解してサインしたのか定かではない。

 今度は職員の立会いの下、飾水の家の貴重品を桔梗家具店の物置部屋へ移した。大人三人と子供一人の手があったが、一日掛かりの大仕事となった。

 飾水の家に繋がる道は除雪が行き届いておらず、車で立ち入ることは出来ない。荷物を抱えながら雪に覆われた坂道を下り、荷物を車に乗せ、車で店まで運んでも今度は三階の物置部屋まで荷物を上げなければならない。一往復では済まなかったため、それをもう一度行う。

 飾水の作った作品は傷がつかないよう一度梱包し、丁重に運ぶ必要があった。家具の納品作業と似たようなものではあるが、数を一日でこなそうとすると面倒だ。

 家の収納にはハルカの出生記録やアルバム写真もあった。生まれにまつわる情報や今後本人に必要そうな書類は職員に預け、現在ハルカを保護している施設まで届けてもらうこととした。

 星影たちが家財道具をかき回しあれこれと持ち出したことで、最初にここを訪れた際の不気味な様子はすっかり無くなっていた。物が減った方がまだ生活感を感じるとは、変な話である。

 荷物の移動を全て終えると、職員は最後にと言ってあの家の新しい合鍵を星影に託した。

 思わず星影はそれを突き返す。

「私が持っていては問題だ」

「我々は連絡を頂いてもすぐに駆け付けられる訳ではありませんので、大切にお持ちください。勿論、やむを得ぬ状況以外での使用は禁じますが、大丈夫でしょう」

 この家の多くの持ち物を自分の管理下に置きながら、今更鍵だけは持てないというのは通らないだろう。星影は鍵を握り込み、ズボンのポケットの奥へ大事に仕舞い込んだ。

 管理署の職員は一年毎に家の確認へ訪れることになっているため、星影たちも毎年そこへ立ち会うことになった。次に訪れる際は、家の掃除も行えると良いだろう。

「その時は冬場を避けてもらった方が良いでしょう」

「ええ、そうします」

 苦笑した職員の口元から、白く染まった息が漏れた。


 それから春になり、アンリは町にある小さな学校に通って初等教育を受けることとなった。

 星影も大親方も、アンリが学校で友人を増やし気持ちを持ち直してくれることに期待したが、そう簡単な話ではなかった。

 アンリは元々人見知りな気質もあった上、友人がいなくなってしまったからといってすぐ新しい代わりを得ようとするのは、ハルカに対する裏切りだと感じたに違いない。

 勉強もあまり集中力が続かないようで、学校生活はアンリにとって良い刺激にはならなかった。寧ろ気疲れが増えたのか、帰宅後に居間で宿題を済ませるとすぐに星影の部屋で眠るようになった。

 アンリは大親方に特になついていたが、それも最近は控えめなのだという。

「どうも、心中という言葉を覚えてきたらしい。他の子供が言っていたんだろうな」

 飾水とハルカの一件は、少なからず町の住民たちの間でも認識されていた。

 他人事として安易な見方をするならば、あれは子供を連れた親の心中行為であった。飾水にそのような考えがあったかどうかも、わざわざ遠い場所の霧のある地帯を選んだ理由も分からない。だが、あの整えられすぎた部屋の様子を目の当たりにした星影からすれば、そういった印象を他の者が抱くのも無理はない。

 そう思った大人の影響か、それとも聡い子供が学校で話題に出したのだろう。本来もう一人いるはずだった同級生の話題を。そしてあの子はハルカにまつわる会話を無視することが出来なかった。

 アンリは、まさか親という存在が子を死に至らしめようとするとは思ってもみなかったはずだ。事実かは不明であるにせよ、ハルカがそのような目に遭っている可能性を知って大きく傷ついただろう。身近な大人にさえ心を許しきれない程、人が信じられなくなっただろう。

 星影はもう少しアンリが成長してから自室を与えるつもりだったが、今のアンリには一人になれる場所が必要に思われた。

 そこで予定を繰り上げ、星影の部屋に隣接する空き部屋から不要な荷物を動かし、そこをアンリの部屋とした。急なことだったが、大親方がアンリの部屋に必要な机や椅子、新しいベッドなどを次々と拵えてくれた。

 自分の部屋を手に入れたことでアンリは一層内に籠る傾向を強めたが、見守る二人はそれを打開する方策を見出せなかった。

 子供の頃に持ち得る理由のない万能感。周りの人間が良い人間ばかりだという幻想。幼いアンリにかけられていた優しい魔法は、ハルカの一件を皮切りに解けていってしまった。

 その時はいずれ訪れることだったにせよ、知らずに済んでいた現実の非情さにアンリは打ちのめされる。己の無力さを思い知るにつれて、アンリは徐々に無気力になっていった。


 大親方が死んだのは、アンリが九歳の頃。例年通り雪深い二月の日であった。

 心臓の血管に負荷がかかったことによる心停止。入浴の祭、温かい浴室から冷える脱衣所へ移動しようとしたところで倒れていた。

 大親方は齢が八十を越えても尚工房に立ち、その日まで気丈さを崩さず生きてきた。堅牢でありながら優しさと柔軟な視点を兼ね備えた師であり、星影とアンリの心を支えてきた家族である。

 その死は、二人にとっても本人にとってもあまりにも突然のことであった。

 大親方の葬儀、そして死後の様々な手続き、自分一人で背負うことになった家業、アンリと二人だけの生活。星影は喪失に嘆く暇無く、日々の目の前にある仕事に忙殺された。

 忙しさに構えば悲しむ余裕が無く寧ろ助かったが、その親の傍らで更なる喪失を経験したアンリの心は、行き場を見出せなくなっていた。

 いつしかアンリは、時折虚空へ向けて何処でもない遠くを見つめるような目をするようになった。

 ハルカも大親方もいた温かい過去の日々を夢想しているのか、それとも遠く離れた地に生きるハルカのことを案じているのか。暖かいのか冷たいのか感じ取れない光を湛えた眼差し――。

 気が塞ぎ始めた頃のような明らかな落ち込み様が目立たなくなった代わりに、心ここにあらずといった様子でいる場面が増えた。

 初等教育をあと一年で終えようという頃になって、アンリが進学を望まず家の手伝いをすると申し出たことに星影は特に驚かなかった。

 アンリは幸いにも算術の成績は良好である。家業を継ぐ気があるかはともかく、技術が身に着けば仕事をこなすことは出来るだろう。適度な忙しさは己を苛む思考から守ってくれるかもしれない。

 何より、僅かな気力で生きているアンリがそれでも何か出来ることをしようとしている。その気持ちを報いたかった。星影はアンリの申し出を快く許した。

 幼い頃から星影や大親方の仕事を見ていたお陰か、アンリは家で働くことに大きな違和感を持たずに馴染んでいった。

 アンリには主に雑用や店番を任せた。処世術としての会話を機械的に学んでいくことで、緩やかにではあるが人と接する際の抵抗感は薄れていったようである。

 アンリにとっては学校で同年代の子供と話すよりも、年の離れた目上の人間相手の方が精神的な距離感を保ててやりやすかったのかもしれない。

 とはいえ集中力にムラがあるのは相変わらずで、ぼんやりとしたアンリを工房に立たせる覚悟を星影はなかなか持てなかった。

 アンリの成長は、多くの停滞とほんの僅かな前進の繰り返しだった。

 次なる大きな悲しみに怯え、未知の世界を恐れる。大きな喜びよりも、不安の少ない平凡を望む。

 起伏なく味気ない日々の連続にアンリは不満を示さない。その慎ましさが星影の目には哀れに映る。

 アンリは納得した上でこの生活を送れているのだろうか。星影は、自分のしていることがアンリのためになっているのか自信を持てなかった。


 その停滞が崩れたのもまた突然だった。

 あのハルカがふらりと町へ戻って来たのである。

 ハルカ――改め、雪路は大きな挫折を経験し、都市で積み上げてきた生活を捨てて来た。

 しかしその心は未だ飾水を求めていたようである。雪路は飾水を信頼していたからこそ、心中などという可能性に目もくれなかった。事件当時、幼いハルカを傷つけまいと大人が作り上げた飾水の行動動機の一例を今も盲信し続けているのだ。傍から見れば違和感があるが、事件のショックから自身を守るためでもあるのかもしれなかった。

 長年の支えとなっていた目的を失った雪路もまた、誰かに似てぼんやりとしたところがあった。

 都市で自立した生活をしていただけありしっかりしているが、吹けば飛んでいきそうなか細さが垣間見える。

 雪路がかつて暮らしていた家は残っているものの、再び暮らせるように整備するには時間も費用も掛かる。自嘲的に都市での生活を振り返る雪路を星影は放っておけず、住み込みの見習いとして雪路を店に招き入れた。

 どうにか引き留められないかと考えたのは、アンリの劇的な変化を見過ごせなかったからでもある。寧ろ、それが本命だった。

 雪路の帰還は、アンリにとって世界にまだ希望が残っていることの証明と言っても良かった。ここが報いのある世界だと信じられれば、人は生きていられる。

 雪路と再会を果たしたアンリは、見違えるように明るくなった。

 十三年もの空白があり、お互いに性格も背格好も変わっているにも関わらず、アンリと雪路が打ち解けるまで時間はかからなかった。

 昔仲が良かったという事実が、これまでのしがらみやそれぞれの人間不信を不思議と掻き消しているようである。

 雪路といる時のアンリの表情の輝きは、無論様々な思いがあってのことだろう。ふと、それに見覚えがあることを星影はある時悟った。

 アンリは遠くを見つめるような瞳で雪路を見ていた。これまでも時々現れていた、あの言い表せぬ光を宿した眼差しである。

 アンリの中で生き続けていた一片の感情。凍てついた環境で芽を見せなかった種は、長い年月をかけて人知れず地中に深く深く根を張っていた。それはハルカに対する底知れぬ執着、尽きることのない情愛となっていたのである。

 最早、雪路のいない日々に戻ることには堪えられないだろう。雪路を引き留めたいという思いは、アンリの方が星影のそれより何倍も強かった。

 自分よりも更に強い情念を見ると、星影は一転して冷静になっていた。

 アンリの想いがこれ程のものとは知らなかったとはいえ、雪路に一方的な期待を寄せる相手との共同生活を勧めるのは真っ当ではないだろう。我が子の幸福のために雪路の存在を利用していると言われても仕方がないことだ。

 それは雪路のためにはならない。縋る気持ちでこの町に帰って来たにも関わらず、このような環境に置かれるとは本人も思っていなかったはずだ。

 けれど。けれど、星影は後戻りできなかった。

 アンリの友人として、或いは家族として、雪路がこの家に慣れていく様子に淡い期待を捨てられなかった。これがアンリと雪路のためになることであると祈る他無かった。

 これが例え大きな禍根になったとしても、目の前の小さな光明を絶やすことが星影にはやはり出来なかったのである。


 そして、アンリが二十歳の誕生日を迎える。

 アンリは今夜、雪路と酒を飲む約束があった。星影が雪路の誕生祝いに贈った梨酒を試すのである。

 星影は贈る際、雪路が一人で飲んでしまっても構わないと思っていた。ただ、あわよくばと思いアンリにも勧めることを吹き込んでみたところ、雪路は素直にそれに倣った。

 アンリは今日を迎えることが待ち遠しくて仕方が無かっただろう。時々棚の奥に仕舞われた瓶の無事を確認していたのを見かけて、星影は陰ながら微笑ましく思っていた。自分の子共が嬉しそうにしていると気分がいい。

 昼食の買い出しから戻って来た雪路の手には白い紙箱があった。出掛けついでに二人でケーキ屋まで行って買って来たらしい。

 アンリが雪路の誕生日祝いにタルトケーキを振舞っていたので、今度はその返礼という訳なのだろう。

 アンリが選んだのは苺と生クリームのケーキだった。それが三人分、そのまま昼の食卓に並んだ。

 アンリはこちらに気を遣っているのか、欲しいと思う気力すらなかったのか、昔から誕生日になっても物をねだらない子供だった。

 正しくは、衣服や新品の本など無難なものから選んで申し出ていた訳だが、星影もそれを承知で買い与えていた。

 ところが今年は、アンリから本心と思えるリクエストがあった。酒を注ぐための自分のグラスが欲しいのだという。

 星影は酒を好んで飲まない。大親方は嗜んでいたのでいくつかグラスを持っていたが、それに手を付けるのも気が引けただろう。普段麦茶を淹れているグラスを使っても良いが、より特別感が欲しいということか。

 アンリは既にガラス器のカタログをいくつか取り寄せており、目をつけているものを星影に教えた。控えめな丸みを帯びた、すりガラス製の背の低いグラス。これが可愛いのだと言う。

 星影が注文したグラスは無事誕生日に間に合うよう届いていた。自室に仕舞っておいた包みを夕食前に取り出し、工房の片付けを終えて居間に戻っていたアンリに手渡す。

「ほら、アンリ。誕生日おめでとう」

 包みを受け取ったアンリは目を丸くした。

「あ、ありがとう……。……何だか箱が大きくない?」

 中にはアンリの所望したグラスが注文通り入っていた。ただし、同じものが二つ。緩衝材の紙に包まれて、並んで箱に収まっている。

「主役のお前が立派な器で飲むのでも別にいいだろうが、なあ? 別にそう場所を取るものでもなし」

 アンリはぽかんと口を開けて固まってしまう。漸く星影の言葉の意味を理解すると大慌てで頷いた。

「そっ……、そうだよな……! 自分だけなんて、俺、気が回らなくて。でも……ううん、ありがとう、親方……」

「何貰ったんだ?」

 台所に立っていた雪路が背を向けたままこちらに問いかけてくる。

 ぎくりとしたアンリは照れ交じりに答えた。

「雪路の分もあるよ」

「は?」

 アンリの返答に謎を深めた雪路は首を傾げる。

 グラスを洗う必要もあるので、アンリは現物を持って雪路に見せに行った。星影もやんわりとそれに続く。

 調理の手を止めて箱の中身を確認した雪路が反応に困った様子を見せつつ、星影へ顔を向けた。

「良いんですか?」

「お前が気に入るならな」

 夕食の用意が整い、五月からこの日を待っていた酒瓶の栓を開ける。

 星影の選んだ酒は、梨の瑞々しい甘みが味わえる淡黄色の濁りのあるものだった。星影は酒に詳しくないため店のセンスに任せたのだが、初めて口にするものとしては悪いものでは無いだろう。強い酒ではなく、飲み口は殆どジュースのようなものだ。

 新品のグラスに注がれた酒は、蜜を思わせるとろみの伴った光を反射した。柔らかい奥行きを持つ濁りが、すりガラスの優しい風合いに似合っている。

 元々は雪路が受け取った酒であったため、雪路が先に味見をした。

「どうだ?」

「酒の味がします」

「酒だからな」

 雪路は味に対してのこだわりが薄いのか、基本的にこのような反応が返ってくる。体力維持の意識があり、動き回る分の量と栄養は十分に摂るのだが、どこか食わせ甲斐に欠ける。

 一方のアンリは両手の中でグラスを傾けながら見た目をよく楽しみ、もったいぶった末にぐっと中身を口に含んだ。星影は思わずアンリを止める。

「おい、もっと少しずつ飲め。相性も分からないうちから呷るな」

「……え、そうなの? でも美味しい。幸せだ……、こんな誕生日」

 感激しきった様子で、アンリは今度こそ控えめにグラスに口をつけた。

 二人共初めての飲酒のため、星影は暫く様子を見ていた。食事を進めながら、アンリがペースを上げないよう見張る。

 ただでさえ楽しげにしていたアンリは酔いが回るにつれて益々上機嫌になり、時折一人でくすくすと笑みをこぼす。あどけない子供のようだった。地に足のつかないアンリの会話に落ち着いた調子で相槌を入れる雪路は、慎重に飲み進めているお陰か顔色に変化が無い。

 それぞれ極端に体質が合わないということも無さそうだったので、星影は一時間程見守ると空いた食器を持って台所へ引いた。とにかく少しずつゆっくり飲むように言いつけたため、二人はまだ暫く食卓に居る。

 シンクに置かれた調理器具と共に食器も洗い終え、二人に声を掛けて星影は風呂場へ向かった。少しばかり二人きりにしてやろうという気があったのだ。わざわざ気を遣うこともないだろうが、いじらしいアンリの様子を見ていると要らない世話を焼きたくなってしまう。

 普段より気長に入浴をし、様子を伺いながら脱衣所を出る。

 居間からは会話も物音も聞こえない。静かだった。

 食卓にあった食器は片付けられ、グラスと酒瓶だけが残っている。酒瓶の中身はすっかり消えており、残りは曇ったグラスの中で僅かな影を作っていた。

 食器は恐らく雪路が片付けたのだろう。そう星影が察したのは、ソファの上でアンリがすっかり酔い潰れていたからだ。

「おい、大丈夫か」

 沈黙を破り、星影は居間に入る。ソファのアンリから食卓の雪路に視線を移すと、思わずたった今発した言葉を繰り返しそうになった。

 雪路は席に着いたままソファの方に視線をやっていた。酔いは醒めているようだが、樹皮色のブランケットに覆われて頭だけ出ている珍妙な状態だった。

 訊くと、途中からアルコールの影響で冷えが酷くなり、心配したアンリがソファにあったものを掛けてくれたのだという。大抵は飲酒時に血流が促進されることで体が温まるとされているが、雪路はそうはならなかったようだ。顔色が赤くなるどころか少し青白くも見えてくる。幸い冷えはもう落ち着いてきているようだが、本調子には見えない。

 それにしても、こんな紙巻鉛筆のようにぐるぐる巻きにすることはないのではないか。酒に浮かされたアンリがブランケットを掛ける様子を星影は思い浮かべる。確かに、あの機嫌の良さはブランケットを背に掛ける程度では収まりがつかないような気がする。相手が雪路であれば尚のことである。

 そのアンリはというと、ソファに体を預けて今にも眠りにつこうとしていた。背もたれに首を乗せて天井を見上げており、顔はのぼせている。テーブルに伏して眠りそうだったところを雪路が押さえて移動させたそうだが、本人が部屋に行くのを渋ったためにこのような状態なのだという。

 大方、喉の渇きに堪えかねて飲むペースが上がったか。雪路があの様子だったとすると、酒を平らげていたのは主にアンリのはずだ。雪路と比べてアルコールによる不調には至っていなさそうだが、元々の強い眠気を刺激するには十分だった。

 星影はアンリの肩を叩き声を掛ける。部屋まで歩くよう言うが、アンリは閉じた口から「んー」と気のない返事をするばかりであった。

 先程から声を掛けてもこの調子らしい。辛うじて反応はあるが頭は殆ど眠っている。

 こちらの気も知らず心地よい眠りの中へ沈んでいく姿に呆れ、星影は大袈裟に溜息をついた。

「やれやれだ。これを起こすのも運ぶのも骨が折れるぞ」

「じゃあ、運びますか?」

 星影の動向を見ていた雪路がすっと立ち上がり、ゆっくりとブランケットを外して椅子の背もたれに掛けた。

 徐にソファに乗り、脱力したアンリの首の後ろへ腕を回して頭部をこてんと前へ傾けさせる。少し空いた背もたれとの隙間に踏み込み、アンリの背後に回った雪路は脇の下から腕を通した。アンリの片腕を腹部へ寄せ、両手で掴んで固定する。力を入れやすいよう体を密着させた雪路は脚をぐっと力み、今にもアンリの上半身を抱え上げる姿勢になった。

「親方は脚の方持ってください。足先を交差させて」

 流れるような動作に見入っていた星影ははっとし、言われた通りアンリの脚を抱える。せーの、という雪路の掛け声に合わせてゆっくりと持ち上げた。

 どうやら怪我人を運ぶ持ち方らしい。が、星影の脳裏には日中の工房で雪路と大きな資材を移動させた際の記憶が浮かぶ。

 二人掛かりで木材のように運搬される張本人はすっかり寝息を立てていた。誕生日だというのに格好のつかない姿である。

「こっちは凍えそうになってたのに、お前はあったかいな」

 抱え直しながら雪路がそうこぼすのを、星影は背に聞いた。

 アンリを自室のベッドにのしりと下ろし、肩まで毛布を掛けてやる。運ぶのを手伝った雪路に礼を言い、二人で部屋を後にした。

 ドアを閉める直前、星影はもう一度アンリの寝顔を見る。

「全く……。でかくなったな」

 体ばかり大きくなって、寝室へ辿り着くのに人に手間をかけさせる。星影にとってはまだ未熟さの多い子供だ。

 幼少時から狭い世界の一挙一動に翻弄され、自分を守ることに精一杯だっただろう。アンリを伸び伸びと成長させることが出来なかったのは、他ならぬ自分の至らなさである。

 しかし、ここへ来て良い兆しを迎えていることは明らかだ。この幸福に包まれているアンリの姿を大親方にも見せてやりたかったと、星影は惜しい思いになる。けれども、大親方が懐くであろう思いは問うまでもなく星影の中にもあった。

 部屋に続く廊下から台所へ抜けると、電球の灯りが一つ点いている。先に戻った雪路がグラスを洗っていた。

 今にも泡をすすぎ終えて、水道のレバーが締まる。

「親方は、これが何で出来ていると思いますか」

 水滴が落ちるグラスを手に、ふと雪路が尋ねてくる。

「何?」

「見た目の話ですよ。あいつはこれを砂糖で出来てるみたいだって言ったんです。俺は……、氷に似ていると思って」

 まず、二人きりになってもそんな会話をしているのかと星影は脱力した。自分ばかりが気を揉んでいるようで居たたまれなかったが、気の置けない距離感を保っていることにはある意味安心する。

 言わんとすることは理解できる。粉砂糖をまぶしたようなきめ細やかなマチエール。白く泡立った氷のように透過した光を乱反射させる層。すりガラスを見てそのような想像力を膨らませる二人に、自分にはない良い意味での青さを感じた。

 さて。数秒グラスを観察して、自身の思考が繋いだ答えは単純だった。

 雪路の頭上にある灯りを見る。

「電球の先に見える」

「あー……」

 黄色がかった光が曇ったガラスの器に満ちている。

 それは今夜の杯にも似て、小さいながらも解きほぐした光を辺りへ届けていた。

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