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冷土にて 短編 / 幸いは無味に似て

本編第一話の時期から約四年前。

雪路が家具店で迎える初めての誕生日の話。


 瑞々しい新緑が野山を覆う五月。

 雪路がダイバーの仕事を辞め、故郷の町に戻ってから約一ヶ月が経過していた。

 桔梗家具店に受け入れられた雪路は、店の物置きだった一室に寝泊まりを許され、店の一員として働いている。

 といっても今は工房での雑務と家事、時に運搬の手伝いに加わる程度であり、専門的な仕事に関わっている訳ではない。仕事や生活に慣れたと言える段階でもなかった。

 家具店での生活に大きな障害を感じることもなく、店の主や跡継ぎのアンリも友好的に接してきてくれていることもあって不満は無かった。不満どころか、恵まれていて落ち着かない。どこか宙に浮いたような心地が続いている。

 行方不明の育て親・飾水の痕跡を求めて生まれ故郷へ戻ったものの依然大きな手掛かりはなく、あったとしても自力で捜し出すことは困難な状況。家具店の主・星影の援助によりひとまずの衣食住を得られたものの、雪路の先行きは不透明であった。このままここで生きていくのか、別の場所へ行くべきなのかも分からない。

 そんな日々が続くかと思われたある日のことである。

 雪路が朝台所を覗くと、いつも通り親方が一人でコンロの前に立っていた。

 店で一番の早起きは恐らく親方だった。雪路が目覚めて店舗側の三階から工房側の居間へ行く頃には、大抵親方が既に台所に立っており、朝食の準備を始めている。

 一方のアンリは朝に弱いらしく、食事が出来上がる頃にふらふらと台所に出向いてくるのが日常風景であった。昔からそうであるのか、親方はいちいちアンリに苦言を呈すわけでもない。

 アンリは朝の調理を担当出来ない分、夕食担当になることが多いようだった。もっとも、雪路が仕事を覚えるまでは夕食の用意を含めた家事がアンリではなく雪路へ回されることになったのだが。

「おはようございます」

 雪路が親方の背に声を掛ける。

 親方はちらりと雪路の姿を確認して、おはよう、と短く答えた。

「出てる物仕舞っておいてくれ」

「はい」

 雪路はシンクで手を洗い、ワークトップに出されたままの食材の残りや調味料の容器を掴んで冷蔵庫へ移動する。

 扉を開け、手にある物をパズルのように元の場所に収めていくと、ふと冷蔵室の奥に見覚えのないものを見つけた。

「この奥にある黄色いのって、親方のですか?」

「ん?」

「ガラスのボウルに入ってる、何か煮込んであるような……」

 昨晩の夕食を用意したのは雪路だった。よって、その時点までの冷蔵庫の中身は全て把握している。雪路が発見したそれは、昨日まではここに無かったはずのものであった。

 親方はフライパンでじわじわと固まっていく卵液の面倒を見つつ言う。

「……りんごだ。アンリが昨日寝る前に煮ていたのを見た」

「りんごか」

 雪路はもう一度煮りんごを視界に収めて、その答えに納得する。冷蔵庫の扉を静かに閉じて、今度は食器棚へ向かった。人数分の平皿を出して、ワークトップの空いた場所へ運ぶ。

「アンリってよく作るんですか、そういう……甘い物とか」

 雪路は今のところアンリが調理している姿をあまり目にしていない。あるとすれば定休日でのことだ。その時々の食事を見た限りでは、料理が不得意というわけでもなさそうであった。時間と機会さえ噛み合えば、アンリは寧ろ料理に対して積極性がある方なのだろうか、と雪路は思った。

 雪路も人並み程度に料理が出来るが、やる必要があればやるというだけだ。もしアンリの方が向いているなら、そのうち台所に立つ頻度も変わるのかもしれない。

 親方は一人分のオムレツを仕上げて皿に上げ、フライパンへ卵液を流す。

「いや、どうかな……。あれはお前に用意しているんだと思うが」

「俺……?」

 雪路は首を傾げつつ、コンロの上にのったもうひとつのフライパンを手に取る。余熱で置かれていた野菜ソテーからバターと胡椒の香りがした。それをオムレツが横に添えられる形で手際よく三つの皿に盛り付けていく。

 親方が火にかけるフライパンでは、山吹色の卵液が外側からふつふつと明るい菜の花色に固まり始めていた。

「今日、お前の誕生日だったんじゃないのか」

 雪路は空になったフライパンをシンクに置き、親方の横顔を見る。

 確かに、今日五月十三日は雪路の誕生日である。今年でキリの良い二十度目だ。

 親方に誕生日のことを問われて戸惑った雪路だったが、今まで忘れていた訳ではない。自身が歳を重ねることについて、特別な感情が無かった。

 雪路が家具店で生活するようになってまだ一ヶ月程。そのような状況で、自分の誕生日が迫っていることを主張できる厚かましさは雪路に無い。恐らく生活した月日が積み重なっても、向こうから訊かれない限りは誕生日のことを言い出すことはなかっただろう。今日という日は、他の日々と同様に何の特別さも持たないものとして経過していくはずだった。

 思い返してみると、雪路は丁度一週間前にアンリから誕生日はいつなのかと訊かれ、答えている。それが今日に繋がっているのだとすれば、急に煮りんごが現れた理由も察せられる。

 何かお祝いをしなければと落ち着かないアンリに対して、雪路は気遣いは不要であることを伝えたはずだったのだが、日付を知ってしまった以上は見て見ぬ振りも出来なかったということだろうか。アンリは雪路の誕生日を祝う為に何か用意をしているらしい。それにしても、妙に手間が掛かっているようであるが。

「何もしなくていいって言っていたんですけど……」

「まあ、せっかくだ。嫌でないなら相手をしてやってくれ」

 飾水と暮らしていた頃や、都市の養護施設にいる間は誕生日を祝われた記憶がある。しかし施設を出た後はそれまでの人間関係の希薄さが表れたのか、祝うことも祝われることもなくなった。いつからかは不明だが、自分の誕生日への関心も薄い。祝ってもらえたとしてどのように反応するべきなのか、雪路にはイメージできていない。

「何か準備してるってこと、俺が気付いて良かったんですか」

「あれで隠しておけるとはあいつも思ってないだろう」

 雪路は冷蔵室に置かれた煮りんごの姿を思い浮かべた。果肉がそのまま大きく残ったジャムのような、あの状態のまま今夜出て来る可能性は低いだろう。恐らくは昼休みや営業後の時間を使って更なる何か――ケーキや焼き菓子などだろうか――になることは、菓子作りに疎い雪路にも想像が出来る。

「そういえば昔、こっちに来た時におやつで貰った気がします。甘く煮てあるりんご」

「……そうか。覚えているものだな」

 煮りんごは、今は亡き大親方が時折作っては幼いアンリに食べさせていたものらしい。アンリが成長に伴って食べられる量が増えていくと、パンやケーキにも使われるようになったそうだ。

 当時雪路はその煮りんごがある日にたまたま飾水と家具店を訪れて、大親方から振舞ってもらっていたのだろう。くたくたになるまで火が通り、ほんのりと温かさが残ったりんごは、その時の雪路にはまだ馴染みがない食べ物だった。

 そうこうしているうちに二つ目のオムレツが出来上がり、皿へ盛りつけられる。

 雪路はトースターの前へ行った。その脇の棚に置いてある包みから食パンを二枚引き抜き、トースターで焼き始める。焼いている間に食器棚を開き、パンをのせるための皿を取り出した。

 親方は振り返らず、背後で雪路が歩き回る様子を感じていた。

「一応言うと、私もお前に用意しているぞ。口に合うかは分からないが」

 親方は雪路に対して果実酒を一瓶買っているのだと言う。

 雪路は今日から飲酒が許されることになっているのだ。二十度目の誕生日の祝い品としては正に王道的なものだろう。しかし。

「あの、俺は……」

 言い淀み、雪路はそのまま黙り込む。

 この町に戻る前、雪路がかつて務めていた仕事では、日頃から健康な心身と研ぎ澄まされた感覚を維持することが自分の身を守る為に重要であった。今尚引きずるその感覚からすれば、たとえ可能だとしても実際に飲酒しようと考えたことはない。

 勿論、前職を退いた今はそんなことを考慮する必要は無いのだが、雪路は依然酒に対して強い興味があるわけでもなかった。

 親方の心遣いこそありがたいが、それを無碍にしてしまうことは申し訳が立たない。

 雪路の言わんとすることを読んだのか、親方はこう続ける。

「開ける日はいつでもいい。飲まないならアンリが二十になった時にでも譲ればいい。あいつは恐らく飲む」

 親方自身も好んで酒を飲む人間ではなかった。親方無しでは店が立ち行かない現状においては、身体に差し障りの出そうなものは避けているのだろう。仕事を優先し享楽を遠ざけることを苦に感じない様子は、雪路のものと似ている。

 一方のアンリは酒に一種の憧れがあるようで、飲める時が来たら試してみたいと時にこぼしていたそうだ。「……アンリの誕生日っていつなんですか」

「それは本人から聞け」

「はあ」

 パンが炙られていくのを眺めつつ雪路が曖昧に答えていると、廊下をややゆったりとした歩調で進む音が近づいてくる。

 すると、まだ眠気の残るアンリが台所に顔を出し、おはよう、と呟いた。台所に雪路の姿を見つけると、数度瞬きをする。

 噂をすれば何とやらである。しかし、今朝の話題は最初からアンリのことばかりだったような気もする。ようやく現れたか、と言う方が適切であろうか。

 トースターを屈むように覗き込んでいた雪路は立ち上がり、目元を擦っているアンリに呼びかける。

「アンリ、パン何枚」

「……二枚」

「アンリの誕生日って、いつ」

「え……。……十月の、二十二だけど」

「そう。十月か」

 アンリの返答に、雪路は頷く。

 先程の親方の言葉からすると、少なくともその日まではここにいるべきで、ここにいても許されるということだろうか。

 なら、そうしよう。雪路はその場でそう決めた。

 時期も目的も何でも良かった。体のいい理由があればそれで構わない。自分ならどんな状況に投げ出されてもどうにか出来るだろうというぼんやりとした自負はあったが、再び宛ての無い状況へ舞い戻ることに心理的抵抗があるのは事実だった。ここでの生活を続ける言い訳を内心探していたのかもしれない。

 一先ずは、それが見つかった。アンリの誕生日まではここでの生活を続ける。その後のことはこれからまた考えればいい。

 そんな雪路の思考を知る由もないアンリは、パンの枚数のついでに訊かれた問いを反芻し、大きな疑問符を浮かべる。

「――って、どうして俺の誕生日の話になるんだ。それより今日はお前の……」

 と、アンリは思い出したように髪を手で軽く整えだすと、丸まりかけの背筋を伸ばした。ただでさえアンリは背が高い方なのだが、姿勢を正すと一層高く感じる。雪路からは少し見上げる形だった。

「誕生日おめでとう、雪路」

 噛み締めるように、アンリはそう口にした。

 雪路は祝われ慣れているわけではない上に、アンリがやけに改まった調子で言うものだから益々反応に困る。人の好さの表れなのだろうが、昨晩からわざわざ何か用意していることといいアンリは些か大袈裟なところがある。先月再会した際など今にも泣き出しそうな様相であったことを、雪路はふと思い出していた。

「ああ……。ありがとう……?」

 そこに間が悪く、チーン、とトースターのベルの音が割り込む。

 見ると、目を離している間にパンの四隅が黒く焦げてしまっていた。どうにもこの家のトースターは時間の設定が難しく、見張っていないと適切な焼き色をすぐに逃してしまう。

 許容範囲内ではあるが、これは自分の分になるだろう。雪路は網にのったトーストを摘まみ上げる。

 その様子を覗いていたアンリが雪路に提案した。

「次焼けた方のが良かったら、俺に今の分を回していいよ」

「それは、誕生日だからか」

「いや、寝坊した分、かな……」

 そう言い残してアンリはふらりと洗面所へ消える。

 寝坊の埋め合わせにするのであれば、それはほぼ毎日ではないのか。雪路は妙な引っ掛かりを覚えつつも、アンリの提案を頭の隅に置いて次のトーストを焼いた。


 その晩、雪路が入浴を済ませた後にりんごのタルトが振舞われた。

 生地とクリームは昨晩の時点でアンリが冷凍室に入れていたらしい。朝は冷凍庫の方まで確認することがなかったが、あの時既に煮りんごの用途に関する答えは出揃っていたのだった。

 今朝方見た黄色い煮りんごは、オーブンで更に加熱されて飴色になっていた。一人六分の一ずつとやや大振りに切り分けられたそれは、店に並ぶほどの洗練された仕上がりではないにせよ、いい意味で安心感を懐かせる見た目のタルトである。

 こちらを見守るアンリに軽く礼を告げ、雪路はフォークで切り分けたそれを一口含んだ。

「……甘い」

「そりゃあ甘く作ってあるんだから、甘いよ」

 やり取りを見た親方がふっと笑い、自身もタルトに手を付ける。

 甘い物を食べて甘いとしか形容出来ないことを雪路自身もどうかと思う。作ったアンリもこれでは甲斐が無いだろう。しかしその味は本当に甘かったのだ。麦茶が苦く感じる程に。

「でも、よく出来ていると思う。……こういうのを食べるのって、いつ以来だろう」

 雪路が何気なく呟くと、アンリははっとして視線を逸らした。テーブルには、親方が雪路へ贈った果実酒の瓶がそのまま置かれている。後で雪路が台所の戸棚に仕舞うつもりだった。

「お酒は開けないのか?」

「明日も仕事だし。アンリも飲めるようになったら開ける」

「えっ、でも」

「俺だけだと余らせる」

 言い終え、雪路はタルトを再び口へ運ぶ。

 煮詰めたりんごが見た目通り甘ければ、クリームも甘い。生地にも砂糖が入っているのかやはり甘く、どこを取っても甘かった。しかし舌は徐々に慣れるのか、甘さのインパクトは食べ進める程に弱まっていく。

 雪路がこういった甘い物をまともに口にしたのは、養護施設に居た頃が最後だったのかもしれない。

 数か月前までの自分が今の状況を見たらどう思うのだろう、と雪路は思う。町での穏やかな生活はそこに暮らす人間からすれば普通なのかもしれないが、雪路が都市でダイバーに成るべく自身を追い込んでいた日々と比較すれば別世界である。飾水を捜し出すという最大の目的に繋がらない部分においては雪路は無欲的かつ消極的で、嗜好品の無い暮らし振りが普通であった。

 かつて居た都市とこの町はかなりの距離で離れている。しかし遠い場所へ来たと感じるのは物理的な部分だけではない。ここには雪路に縁遠かったものが多くあるらしい。自身から遠ざかっていた――或いは遠ざけていた――〝普通〟の営みの中へ、自然と浸りかけている。 

 今はまだ、ここでの仕事や生活に慣れたと言える段階ではない。ただ、繰り返していく以上は心も身体も慣れていく。恐らくは。

 それが良いのか悪いのかは分からない。此方に向かえば向かう程、飾水との様々な距離が離れていってしまうようにも感じた。さりとて自分が状況に流されていく様を為す術もなく見ているしかない。ここを捨て去れば、今度こそ雪路には何も残らないのだから。

 雪路はタルトの欠片を飲み込み、フォークを再び生地に差し込む。しがみつくように突き立ったフォークは容易く生地に食い込み、一口分を削ぎ取る。アンリが話し掛けて来なくなったので、黙々と食べ進めた。

 一方、タルトを作った張本人も漸く自分の分に手を付ける。甘い、と言われたりんごとカスタードのタルト。自分でも味を確かめなければならないのに、突如頭を埋め尽くした考え事のせいでその味が分からなくなっている――などと言い出せる訳もなく、アンリは喉に残った感触を麦茶で流し込んだ。

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