本編第七話中の時期。どこかの年の尾研の誕生日に関する話。
今年の十一月六日は、可燃ごみの日。
早朝、日が昇る前の薄暗い道路に二点の白いヘッドライトが現れる。
星のない夜空を切り抜いたかのような漆黒の車体が、寝静まった住宅街の隙間をゆったりと滑るように進んで行き、ごみ集積所の手前で停止した。
運転席から降りた尾研はトランクからごみの詰まった大袋を取り出す。トランクを閉める音だけが不必要に周囲へ響いた。辺りを見渡すが、自分以外の人影はない。
集積所の中は今朝もまだ空だった。尾研は半ば投げ捨てるようにごみ袋を入れる。
人目につかない時間にごみを捨てる。たったそれだけの用事を済ませると、尾研は再び自宅へ戻り、ガレージに停めた車の中で二時間程眠ることにした。
尾研の育った家は、閑静な住宅街にある二階建ての一軒家である。
家屋に備えられた車一台分のガレージには、かつて立織の車が収まっていた。立織がいなくなってから無用となったそれは、ボディーガードの資格を得た尾研が自分の車を購入することでようやく処分された。
尾研はシャッターを下ろしてロックを確認し、ガレージ内の照明を落とした。窓の無いガレージ内は完全な暗闇になる。
手探りに車の運転席に乗り込み、ドアにもロックをかける。
シートをリクライニングさせ、瞼を閉じた。
尾研はすっかり自宅の部屋で眠ることは無くなっていた。車という自分の手で獲得した空間があってからは、着替えと僅かな私物を取りに出入りする程度の場所でしかなかった。
立織が二度と帰ってこないことを知っていても尚この家は尾研にとって忌まわしい場所であり、あの頃の悪夢が未だ続いていることを自覚させられる。
しかし週の半分以上はこちらで過ごし、親のいない単身者のふりを続けなければならなかった。
郵便受けの中身を小まめに回収し、それらしい頻度で家の灯りをつけ、生活の跡を残す――。何年も続けているために大きな感情の動きはなく、周囲の目を誤魔化すために義務的にこなしている。
あの日からずっと、この家は立織の帰りを待っている。立織が死んでいるとはまるで思っていないかのように。
車に籠った尾研が眠りにつく一方で、無人の家では今でも立織と幼き日の自分が息づき、暮らしていた。
朝の七時。大通り沿いのベーカリーに並び、焼きたてのクロワッサンとドライフルーツ入りのハースブレッドを買う。
穂波のボディーガードとして行動を共にするようになってから、送迎前にパンを買っていくのが習慣になっていた。パンは穂波の好物の一つである。
かつては食事を拒んでいた程の穂波だが、今ではすっかり食欲旺盛であった。
澄んだ霧の影響下から抜け、身体が本来の機能と感覚を取り戻す過程に於いて穂波はひどいパニックを起こしていた。
霧の中の集落で暮らす以前の記憶と経験が失われている穂波にとって、霧の作用で不変となった肉体で食事もせず過ごすことこそが普通であったのだ。一種の完成された状態が解け、自らの動物的な側面を直視することは惨めで苦痛な経験だっただろう。穂波に課せられた罰とは、一人の子供を連れ帰ることだけではなかったに違いない。
けれど穂波は自身の欲求を受け止め、ここでの生活を謳歌している。霧の外で生きることそのものが罰であっても、どうせなら楽しんでやるのだという穂波の気概が尾研には眩しかった。尾研にはどうやっても手に入れられない余裕と向上心だ。
暮らしに馴染みきっている穂波を見て、尾研は以前ある提案をしたことがある。飾水という人物から頼まれたことを無視してこのままこちらで暮らしてはどうか、というものだ。
雪路という人物を集落へ連れて行く思惑はなかなか上手く運ばず、確実性もない。口約束なのだから、いざとなったら逃げてしまえばいいはずだ。澄んだ霧の中へ行けなくとも、穂波と共にこの世界の何処かでひっそりと暮らせるのであれば、尾研としても僅かにはマシなことだと思えた。
しかし穂波には全く響かなかったようで、あっさりと却下される。
穂波は、尾研と二人で交わした約束と今日までの協力関係を重く捉えているようだった。楽しんでいる食事については未練が無い訳では無いようだったが、利発な判断能力からすれば取るに足らない未練なようで。
「それに、お腹が満たされたままの日ってどれだけ生きてても来ないし」
と、あっけらかんと言うのであった。
穂波の自宅に到着し、まだ温かいパンの包みを持って部屋に上がる。
香ばしいバターの香りに気付いた穂波が軽やかな足取りでリビングへ向かい、こちらを手招きした。
ガラス製の茶器で紅茶を淹れ、共に朝食をとる。
穂波と対称的に尾研は小食だった。用意したパンはいつも殆どが穂波の胃に収まる。
切り分けた数口分の食事をさっさと済ませた尾研は、紅茶で時折唇を湿らせながら穂波の様子を眺めていた。
薄い耐熱ガラスの器に注がれた紅茶の熱は儚い。火傷しない適温に冷めたそれを何度か口へ運ぶものの、尾研の喉は受け付けようとしなかった。
喉奥から言葉が出かかっては引っ込み、苛々とした不快感が舌の上にまで広がってくる。何が自分を急き立てているのか、尾研には分かっていた。
カップをソーサーに置き、溜息をつく。紅茶の水面が張り詰めるのをしばし待つと、天井の丸い照明が映った。
尾研は穂波に告げた。
「今朝、あれの私物を少し捨てました」
あれ、とは不明瞭な言い回しだった。だが、穂波は意味をすぐに理解したようである。
ちらと尾研の表情を確認した穂波は、咀嚼したものを静かに飲み込んだ。
「そう」
過剰な反応を見せる訳でもない、普段通りの声色だった。
立織がいなくなったばかりの頃、行方を捜索する大人たちがよく訪ねて来たこともあり、家の中の物を処分することは憚られた。荷物が存在し続けるだけでも忌まわしかったが、行方不明の親の持ち物をそう簡単に手放していては怪しまれるに決まっている。
外面を取り繕うことに長けていた立織は、普段から暴行の痕跡を自宅に長く残さないようにしていた。立織を死へ追いやった後、尾研は動機を想起させる物を密かに家から処分していたが、それ自体も大した量ではない。
事件が人々の記憶から薄れた今、立織に関して人が訪ねてくることは無くなったが、尾研は警戒を解かなかった。隙のある行動が何よりも自身の不安を掻き立てるからだ。
全ての荷物は立織の自室に詰め込んで以降手を付けていなかった。
それを今朝ふと思い立って、生活で出たごみに混ぜて捨てたのだ。
呆気ない事だった。
「いつか、空っぽに出来そう?」
続いた穂波の問いに、尾研は言葉を詰まらせる。
尾研が捨てた立織の荷物はほんの僅かであった。不審に見えぬよう捨てる周期に幅を持たせるとして、部屋を空にするために何年掛かるか分かったものではない。
まして、バラバラにした死体のように跡形もなく処分するべきというものでもない。今後も犯行を悟られぬよう過ごしていくには、捨てられないものの方が多い。
いや――。穂波の問いは、そんな単純な話だろうか。テーブル上に視線を伏せていた尾研は、澄んだ青葡萄色の瞳がこちらへ向いていることを感じ取った。
重要なのは、荷物を捨てられるかどうかではないのだ。
仮に部屋を空にして、家を取り壊して、手放して、あの場所に何も無くなったとして。それは物が物として無くなったに過ぎない。
物が無くなっても残るものがある。そこで暮らしていた尾研という存在と、そこで暮らしていた記憶だ。
立織という原因が取り除かれても、自宅という負の象徴が取り除かれても、それと地続きである自分自身を都合よく切り離すことは容易なことではない。
どれだけ意識の外へ追いやれたとしても、あの家の記憶はしばしば蘇り、自分を苛むだろう。明瞭な像を結ばなくても、捨てたはずの荷物がそこには残っているだろう。
荷物を捨てるだけでも楽になれるなら、と穂波は思案したのかもしれない。けれど、尾研にとっては。
「……無理ですね。あの家が空になる日は、どれだけ生きていても来ないでしょう」
尾研はカップを手に取り、紅茶を一口含む。人肌に近い温度となった紅茶は口内に溶け、自然と喉の奥へ消えて行った。
捨てても捨てても戻ってくる。呪いの品のような記憶。呪われた人生。これから逃げ切ることが可能だとしても、やり遂げるだけの余裕と向上心が尾研には残されていない。
今日までの日々を報うことがあるとすればやはり、穂波と共に霧の中の集落へ行き、澄んだ青い霧の影響を受けること。煩わしい記憶も感情も掻き消してもらうこと。尾研にはその道が最も望ましかった。
穂波は霧の外で暮らしていた頃の名も記憶も消え去り、今の名を与えられて生きている。一度空っぽになった人間だ。
ともすれば幼い頃に集落へ連れ去られた可能性があるが、本人はそのことを全く気にする様子が無い。自分を集落へ連れて来た人間のことすらも覚えていないという。
外見や口調は幼い印象を抱かせるが、よく頭が回り、周囲の大人を言い負かすことさえある。内面的な年齢は果たして計ることは出来ず、過去が透明でつかみどころのない、風のような存在。
叶うのであれば、尾研もそのように成りたかった。
「穂波」
「うん?」
尾研は顔を上げ、穂波の大きな瞳を見た。人の思考を見通す鏡のような瞳だ。
この時感じるのは決まって畏怖の念であった。視線は自分を試しているようでもあり、どこまでも無抵抗に飲み込んでくれるようでもあり、ひとたび対峙すればおいそれと背を向けることが出来ない。
無意識的に眉間へ力が籠るのを感じるが、力の抜き方が分からなかった。
「いつか、私が空っぽになれたら……。その時、私の名前をつけてくれますか」
霧の中の世界はこちらの社会から切り離されている。集落の一員となった者には新たな名が必要になるらしい。
集落での習わしなど無くとも、過去の全てを断ち切りたい尾研にとっては今の名前すらいつかは不要になる。その名が戻ってくることなど無いように、別の名を迎えたかった。今の自分の内から生み出されるものではなく、他者――しかも、唯一信用のおける人間から与えられる名を。
尾研の言葉を聞いた穂波は何か言いたげに目を細めたが、困ったように首を傾げ、苦笑する。
「その頃には僕、キミからそう言われたことも忘れちゃってるかも」
代わりにとでも言うかのように、穂波は手にしたハースブレッドを一口分千切り、テーブルに身を乗り出すようにして尾研に差し出した。生地に練り込まれた葡萄と鳳梨が偏っている箇所であった。穂波が言うところの当たりの部分である。
差し出されるままに尾研はパンの欠片を受け取り、口へ入れた。
「……それもそうですね」
伝えた要望を流されるも、不思議と落胆の感情は無かった。
今の自分では決して触れられない透明ないつかの日が、穂波の口から語られたことに安堵する。輪郭も影もない未来に身を任せる穂波の姿が、尾研にはやはり眩しかった。
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