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冷土にて SS / 漂着

本編エピローグ後想定。

雪路と遼遠が一緒に寝て起きてるだけの話。



 静かに雪が降り続いている朝だった。

 冬場の空気は、ただ冷えているだけではない独特の気配があった。雪がどれだけ激しく降ったところで、雨や霰のように音は聞こえてこない。雪は降り積もる程に周囲の音を塞いでいき、無音の世界を作っていく。

 生き物が身を縮め、水の滴りは凍り付く。音が消えすぎて、却って聞き慣れない音になる。

 それが冬の持つ気配であり、雪の降る音だった。

 その音無き音が、眠っている雪路の聴覚をくすぐった。


 今朝も雪路は悪夢を見ることがなかった。夢を見た感覚すら残らず、夜を一瞬にして飛び越え、朝を迎える。

 目覚めつつある雪路は瞼を下ろしたまま身じろぎひとつしない。意識が再び自身の肉体へ宿っていくのをどこか他人事のように感じていた。

 その場にじっと横たわっているにもかかわらず平衡感覚を失したように感じるのは、まだ寝ぼけているからだ。ゆらゆらと海面を漂う心地が続く。

 波に運ばれ、やがて浜辺へ打ち上げられたように思考と感覚が急に判然として、そうして雪路は覚醒した。

 生活リズムに従った自然な目覚めである。

 漸く瞼を持ち上げると、自分に半ば覆い被さるようにして眠る遼遠がそこに居た。

 遼遠の右腕と右脚が、仰向けの雪路の身体の上に乗っている。肩先に置かれた頭は、垂れた髪に隠されていて表情がよく分からない。耳元に届く寝息を聴くに、遼遠はまだ深い眠りの中にいた。

 心地よい温もりと体にかかる重みが、雪路に二度寝の誘惑をする。

 雪路は左手で掛け布団の端を掴み、静かに遼遠の肩を覆い直す。呼吸に合わせて布団の膨らみが小さく上下する様子を、満たされた気持ちで眺めた。

 もし無人島にひとつだけ持って行けるとしたら、遼遠を連れて行ってもいいだろうか。漂着して目覚めた時にこうして遼遠が居てくれさえすれば、生きていける気がする――。

 そんなありもしない状況を雪路は想像し、今ある暖かさを噛み締めた。また今晩もここで眠るだろうことは分かっているが、さっさと起き上がってしまうには名残惜しい。

 雪路と遼遠は冬の間、しばしば同じベッドで眠っていた。

 寒さに因って、或いは寒さから引き起こされる人恋しさに因って。それらしい理由がどこかにあればいい。互いに都合のいい言い訳を見つけて、傍で過ごせる時間を少しでも得ようとした結果こうなっている。

 初めは雪路の申し出を遼遠が受け入れる形だったが、いつしか一緒に眠ることが自然なことになっていった。遼遠は未だに落ち着かない反応を見せることもあるが、入眠の大きな妨げにはなっていないようだった。

 寝具の大きさの問題とアクセスの良さもあり、雪路が遼遠の部屋へ行って眠ることが殆どである。寝起きの為に自室へ戻らないため、この時期の雪路は店舗側ではなく工房側に済んでいると言っても過言ではない状態だ。

 寒いからというのは体のいい理由のひとつであったが、実際二人分の体温で寝床が早く温まるため、寒さを凌ぎやすいのは確かであった。

 加えて、遼遠の存在を感じられる状況下では雪路の心も落ち着いていられる。朝に弱い遼遠の面倒は雪路が見れば良いし、ベッドが狭いということを除けば二人で眠る生活は言うことがない。

 ベッドが狭いのだから、遼遠がこうして雪路にのしかかるような寝相になることも特に珍しいことではない。遼遠は気付いたらその都度謝ってくるが、雪路はこういった体勢で眠るのは嫌いではなかった。

 雪路にとっては、水面にぷかぷかと浮かぶような無重力状態よりも、身体が何かに接触していたり、包まれていたり、圧迫されていたりする状態の方が居心地がいい。そもそもの相手が遼遠だからだというのも大きいが、多少の寝苦しさが気にならない程には安心感が勝っている。

 遼遠のベッドに雪路が邪魔をしているという構図である以上、自分を枕扱いなり何なりすれば良いとすら思っていた。

 雪路はふと、遼遠の背後の位置にある窓を見る。カーテンに覆われていて外の様子は分からないが、裾から漏れる光が氷の色を思わせた。

 昨晩の空模様が続いていれば、道にはそれなりの積雪があるはずであった。朝の支度の時間も考えると、そろそろ起きて雪掻きに出向いた方がいいだろう。親方が先に作業を始めてしまっているようでは申し訳が無い。

 以前は雪路がベッドを抜け出して一人で雪掻きへ行き、遼遠の寝ている間に素知らぬ顔で戻るのを繰り返していた。しかし、ある時それに気づいた遼遠が置いて行かれたことに拗ねてしまったので、それ以降は黙って抜け出す訳にはいかなくなってしまった。

 遼遠が眠気に勝てない場合はよく言い聞かせた上で結局一人で先に行ってしまうのだが、どちらにせよ一度起こさなくてはならない。

 気持ち良く眠っているだろう遼遠の方へ視線を戻して、雪路は小声で呼びかけた。

「遼遠」

 最初の方は反応が無い。

 遼遠の頭を指先で撫でながら、雪路は呼びかけを続ける。

「遼遠、朝だぞ」

「んん……」

 遼遠の身体が眠気に抗って僅かに動く。声は聞こえているようだった。

 すると、成り行きでそこに投げ出されていただけの腕と脚が、意図をもって雪路の身体に絡んでいく。

 すぐ傍に雪路がいることに気付いたのか、それともただ起きるのが辛いだけなのか分からないが、遼遠はおもむろに雪路にしがみついた。

 遼遠が覚醒前の曖昧な状態で見せる無意識的な行動に過ぎなかったが、雪路はこの反応の相手をするのも嫌いではなかった。この状態の遼遠には普段表れている遠慮というものがなく、知らない面を垣間見れた気がしてどことなく嬉しい。

 雪路が身動きせずに相手の好きにさせていると、浅い眠りの中を彷徨う遼遠がもごもごと寝言をこぼす。

 何となく呼ばれた気がした雪路は首を捻り、すぐ真横に近づいた遼遠の額に自分の額を摺り寄せて応えた。

 手で軽く髪を搔き分けてやると、眠たそうに眉間を狭めた顔が見える。明かりを感じたのか瞼が薄く開かれ、小さな瞬きをゆったりと繰り返した。

 そして、しばしの間があった。

「――えっ」

 はっと我に返った遼遠が小さな声を上げる。

 表情は固まり、自身が作り出した状況にひどく当惑していた。

「あ……、ごめ……」

 遼遠は咄嗟にその場から離れようとしたが、目が覚めたばかりで身体を思ったように動かすことが出来ない。どうにか雪路のいる側とは反対方向に転がろうとすると、背後の壁までの距離に余裕が無く、突っかえる。思考も体の反応も何も追いついていなかった。

 逃げ場のないことに気付いた遼遠は枕に顔を半分沈め、残りを手の平で覆って動かなくなってしまった。

 雪路は上体を起こし、縮こまった遼遠に声を掛ける。

「おはよう」

「……ごめん」

「何が? 俺好きだよ、お前にくっつかれるの」

「朝からこれなんだもんな……」

 遼遠は複雑な心境で煩悶していた。

 雪路は両手を組んで伸びをする。もうベッドから出ようというところだが、遼遠は時間が掛かりそうだった。

 横になったままうっかり二度寝を始められても困るので、雪路は適当に話しかける。

「そういえば、遼遠って泳げる?」

「えっと、何の話……?」

 目が覚めて早々脈絡もなく振られた問い掛けに、遼遠は困惑せざるを得ない。

 しかし雪路が唐突なことを言うのは今に始まったことではなく、これは他愛のない会話を振っているのだと何となく察した。話題を変えられるのはありがたいので、大人しく乗ることにする。

 遼遠は覆った手を顔の前からずらしつつ、控えめに雪路の顔を覗いた。

「泳げるって言っても昔のことすぎて、今は……。俺重いし、沈むんじゃないか」

 遼遠は初等教育時代に水泳の授業を受けたきり、水の中を泳いだ経験が無い。町の学校が小さければ置かれたプールも最小限のスケールで、低学年のうちに満喫するのが精々。泳ぐことを特別楽しいことだとも思わなかった。

 身の安全を守るために必要最低限のことは教わったはずだが、その経験を以って今も泳ぐことが出来るとは遼遠には言い切れない。

「沈むってことはないだろ。力抜けば誰だって浮くんだよ」

「泳ぐ機会なんて無いし、今まで全然考えたこと無かった」

 町には大人が泳げるような場所は無い。海へ行こうにも町からは相当な距離があって現実的ではない。ここで暮らしていくだけであれば、水害が起こらない限り泳ぐことを迫られることはないだろう。

 雪路は都市で〝ダイバー〟を目指していたこともあり、最低限の学習に終わらず体力づくりの一環として水泳を行う環境にあった。しかし今となってはそれが生涯で最後の泳ぐ機会であったと思うと、不思議な感覚がする。

「確かに、きっと無いだろうな。これから泳ぐことなんて」

「どうして急にそんなこと言い出したんだ」

「そうだな。無人島に行ったらどうしようかと思って」

「ふふ、何だよそれ。夢の話?」

 本当に何も脈絡のない話題だったことを知り、遼遠が思わず笑みをこぼす。

 無人島と聞いて作り話に出て来るような常夏の島を思い浮かべた遼遠は、この真冬に正反対のことを考え出す雪路を可愛らしく思った。

「そっか。夢の中だったらまだ泳ぐかもしれないのか」

「もし泳げなくても俺にしがみついてればいいよ。さっきみたいに」

「……」

 そう返された遼遠はのっそりと起き上がり、窓のカーテンを開ける。昨晩よりも粒が細かくなった雪がしんしんと降り続いている様子が見えた。

 共に窓の外を眺めていた雪路は、抜け出ようとしていた布団にもう一度腕の先を入れる。カーテンを開けただけで、冷気がガラス越しに流れ込んできたように思われた。

 ここから見える工房の裏手側までは雪掻きが手付かずで、地面がのっぺりとした白で埋まっている。雪雲に覆われた日であっても積もった雪は洗い立てのシーツのように明るく輝いていて、それが寝起きの遼遠には眩しすぎた。

 掛け布団を胸元に手繰った遼遠は、そこに顔をうずめてぼそぼそと言う。

「それじゃあ雪路まで沈んじゃうだろ……」

 何やらぼやいたらしい遼遠を見て、雪路がその肩に寄りかかる。

 遼遠は掛け布団に押し付けていた顔を持ち上げて深いため息をついた。寄りかかっている雪路を押し返すようにして言う。

「……雪掻き行くんだろ。頭を冷やそう、俺もお前も」

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