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冷土にて―夜の章― / エピローグ

 雪路は無事に巣文と千崎の下まで辿り着き、二人に肩を貸されながら千崎の車へ戻った。朝方に開始された霧への進行は、約十七時間後の深夜に雪路の帰還をもって完了とされた。

 生還を果たした雪路の表情に安堵の色はなく、何も語ろうとしない。頬に涙の流れた跡を沢山残して、焦点の定まらない目で座席に収まる。

 穂波たちや霧の奥の様子が気になっていた巣文と千崎であったが、雪路のただならぬ様子に圧倒され、何も訊くことができない。

 巣文がここから最寄りの病院へ連れて行くことを提案すると、雪路はそれを激しく拒み、ただただ一刻も早く自分の町へ向かうように懇願した。嫌がる雪路を無理やり連れて行く自分たちがまるで悪者のように感じ、二人は雪路の希望通りに進路を変える。

 車が町へ向かう間、体力の限界であるはずの雪路は一睡もしていない様子だった。見守る二人は益々心配になり、こちらも休む間を惜しんで車を走らせた。

 翌日の昼過ぎ。遂に目的の町の外れまでやって来て車を停めると、雪路はすぐさま車の外に飛び出して行ってしまった。半日近く車の座席で休んでいたとはいえ、走るほどの体力が雪路に残っていたことに二人は驚く。

 慌てて後を追うと、桔梗家具店と書かれた店舗の隣にある、同店の工房と思われる場所に駆け込んで行くのが見えた。

 追いついた二人は工房に続いている住宅側の玄関からベルを鳴らし、焦った様子で出てきた高齢の住人に事情を説明する。雪路はその住居の居間に駆け込んでおり、恋人と思われる相手を抱き締めて静かに泣いていた。

 結局、雪路が霧の奥で何を見て、どんな目に遭ってしまったのかは分からない。雪路をここまで送り届けた二人もその痛々しい姿に我慢が出来ず、とうとう涙してしまった。命こそ無事だったが、雪路はあまりにも大きな心の傷を負って帰ってくることになってしまった。


 責任を感じた二人は雪路の帰りを待っていた親方と遼遠に対して深く謝罪したが、真相が分からない以上、親方たちも巣文や千崎を責めることができない。

「やっぱり、行かせるべきじゃなかった……」

 遼遠は雪路と共に泣きながら、強い後悔の念を口にした。

 雪路は遼遠にしがみついたまま少しも離れようとしない。とにかく雪路を休ませるため、遼遠は雪路を自分の部屋に連れて行った。

 居間に残った親方に対して、千崎が恐る恐る切り出す。

「こんなことになってしまった上に厚かましいことをお願いするのですが、隣のお店の中を見せてもらうことは出来ないでしょうか……」

 千崎が穂波から報酬として受け取った「宝の地図」は、桔梗家具店のことを示していた。

 カウンターの奥のバックヤードを探すと、棚の背と壁の隙間にアタッシュケースが押し込まれていた。穂波が先日の晩に店を訪れた際、こっそり置いて行ったらしい。一体いつの間にそんなことをしたのか、親方は気付くことが出来なかった。

 ケースの中には千崎の予想通り高額の現金が入っていた。

 千崎は自分の連絡先のメモを親方に渡す。

「頃合いを見て、私に連絡していただけませんか。この町から出来るだけ離れていない地域で、良い精神医療施設を探しておきます。あと、霧の中へ入ったので後遺症の検査も。通院や治療に掛かる費用はここから出すので心配要りません。……まあ、入手経路が微妙なので取り上げられちゃう可能性もあるんですが、どのみち足りなくなっても私か巣文の懐から出しますから。少しでも力にならせてください」

 勝手に協力することにされてしまった巣文であったが、勿論異存は無かった。巣文も自分の連絡先を親方に伝える。

 千崎は、もしかしたら穂波はこうなることまで予期して「宝」をここに置いたのかもしれないと思った。ただの考えすぎであればいいのだが、釈然としない。もし雪路が霧の中から戻った後こうなってしまうことまで分かっていたとしたら、何故連れて行ってしまったのだ。やはり悪魔のような子だった――。千崎はケースの持ち手を強く握りしめる。

 巣文と千崎は、良ければまた雪路の様子を見に来させて欲しいと親方に頼み、町を後にした。


 雪路はそれから丸二日以上眠り続けた。

 眠り続けて、目覚めると、まるで霧の中から帰って来たばかりの様子など無かったかのように落ち着き払っており、居間で夕食をとっていた二人の前にふらりと現れた。

「おはよう。……じゃないな、この時間。俺って何時間寝てたんだ?」

 二人は唖然とする。遼遠がよろよろと席から立ち上がりながら、二日だ、と答える。

「そんなにか。悪いな遼遠、ベッド占領して。二人にも心配かけた」

「い、いや……」

 まるで、雪路が穂波たちと霧の中へ向かうことなく、本来あるはずだった日常の続きが始まったかのように錯覚させられた。

 雪路が無事に起き上がって話をしていることに喜ぶべきなのかもしれなかったが、二人はその身に何が起こっているのか分からず、様子がおかしかった時のことに言及するのも憚られ、ただ見守ることしか出来ない。

 雪路はすっかりボサボサになった頭を掻く。

「あと、言い忘れてたんだけど、……ただいま」

 そう言って目を細め、安堵の表情を浮かべた。


 そして、雪路が青い霧の奥地から生還して一年半が経過した。

 季節は冬。今季の積雪は少なく、町全体がうっすらと雪化粧している。

 雪路の様子はその後も普段と変わりなく見えたが、周囲から見て言い表せない僅かな変化が起こっていたことは明らかであった。

 雪路は千崎の勧めで、山をひとつ越えた隣町にある精神科を受診し、現在は季節ごとのカウンセリングと少量の薬の処方を受けている。霧の中から戻った後の具体的な変化といえば、雪路は極力、住んでいる町を離れたがらないことだった。その通院自体も「もう何ともないのにな」と言って渋った。

 あの一件で霧を多量に取り込むことも、転倒事故もなかったため、身体的な負傷や後遺症はなかった。見た目だけで言えば健康そのものであった。

 遼遠も親方も戸惑ってはいたものの、過剰に心配して接することはやめ、すぐにいつも通りの態度に戻るよう努めた。変わらぬ日常に戻ることを何よりも雪路が求めているのだと察した。


 店の定休日であったその日の午後。夕食のための買い物へ行くついでに、雪路と遼遠は商店街を外れた田舎道へ散歩に行った。

 何も面白みのない見慣れた道だが、二人で歩ければそれでよかった。

「そういえばこの前巣文さんが送ってくれたお菓子、俺も貰ったよ。美味しかった」

「この調子だとずっと送るつもりなのかな、あの人。そのうち都市中の菓子がここに居ながら制覇出来るんじゃないのか」

「お菓子が終わったら他の名産品とかが届いたりして」

「こっちが返すものがなくなるって」

 歩く時、遼遠は雪路と手を繫ぎたがる。遼遠の歩調に合わせようとすると、雪路の歩幅がばらけると思っているからだ。

 確かに、雪路はこうして歩いていると歩幅のことなど忘れそうになる。

 今は歩幅を崩さずに歩くスピードを調節することで、遼遠に合わせる形になっている。けれど会話をしたり景色を見ながら歩いていると、自分が歩いている感覚が無くなる瞬間があった。

 染み付いた癖は簡単には消えないが、根気よく時間を掛ければ普通に歩けるようにはなるのかもしれない。

 雪路が青い霧の中を行き来することは恐らく二度と無いだろう。このまま遼遠が望むように、霧の中を歩くために身に着けたことを全て忘れて、普通の生活を取り戻す方がいいだろうと雪路も思っていた。

 けれど、雪路の頭の奥底には、あの霧の奥の集落までの道筋がまだしっかりと残っている。

 もう用はないはずの地図が何度も脳裏に浮かび、時には踏みしめた地面の感触まで思い出す。


――それで、その愛する人が死んでしまう時はどうするんだ、ハルカ。


 雪路は、あの場所までの道のことを忘れてしまおうか、それとも覚えたままでいようか、ずっと迷っていた。

 きっと本当は、尾研の言ったように何もかも忘れてしまった方がいい。雪路にはまだ他の道が十分残されている。

 だがもし覚えていた方がいいのなら、やはり霧の中の歩き方も続けた方がいいだろう。いや、穂波や飾水の言っていたことが本当なら、もし歩幅が崩れていたとしても――。

「もし、遼遠が……」

 遼遠と歩きながら、不意に雪路はそう呟いた。

 もし、遼遠がそれでもいいと言ってくれるなら。そうしたら、俺はお前をあの霧の奥へ連れて行ってしまうかもしれない。

 終わりあるこの世界の先にある、切り離されているはずの世界。そこへ繋がる道を、俺は知ってしまったから。

 俺はこの繋がりを切りたくない。お前と過ごせる時間を永遠に引き延ばす術があるなら、俺はそれを選んでしまうかもしれない。それが果たして、幸福なことなのかも分からずに。

 それでも遼遠は、俺と一緒にいてくれるのか――。

 何度目とも分からない迷いが、雪路の中でもやのように広がる。

「どうしたんだ、雪路」

 雪路は我に返って立ち止まる。遼遠が少し困った様子で雪路の顔を覗き込んだ。

 雪路は手元を見る。無意識のうちに繋いだ手に力がこもり、遼遠の手を強く締め付けてしまっていた。

 しがみつくように絡んだ手を慌てて離し、首を振る。

「悪い。何でもない」

「……そう?」

 遼遠は、雪路が時折見せるこの不安げな様子が、恐らく霧の奥で体験したことと関連があると察していた。しかし具体的にどんな気持ちの表れなのかまでは分からない。いつも雪路にはぐらかされるので、遼遠は曖昧な励ましを伝えることしか出来なかった。

 ほどけた雪路の手を再び取り、遼遠は微笑む。

「おいで」

 畑の拡がる一帯を大きく周るように行き、再び商店街へ向かって歩いていく。日が傾き、畑を覆った白い雪に青い影が落ちる。積雪の不規則な起伏が夕日の色を僅かに反射していた。

 この町で過ごす穏やかな日々は、暗闇の中のランタンのように雪路を優しく照らし、導いていく。いつまでも続いていくだろう暖かい光に、雪路は守られている。

 その一方で、遠く離れた景色の向こうから、ひやりとする恐怖の影が迫っているのを雪路は感じずにはいられなくなっていた。

 青い霧の滲む西の雑木林は、雪路の背後の道をずっと進んだ先にある。遥か遠くへ続く景色は幻ではなく、今立っているこの場所と地続きだ。影はこの場所まで至る道を知っている。この世界は終わり無く続いているのではない。

 雪路は霧の向こうで終わりのない世界を見た。空間的な広がりではなく、時間が際限なく続いているひとつの永遠を見た。それ故に、自分の生きる世界に終わりがあることを知ってしまった。

 この世界には時間の限界地点がある。命と繋がりの終わり。どこまでも続くはずだった世界の果てへ、幻だったものが現実へ、いつか辿り着いてしまう恐怖がある。

 死への恐れ――。それは音もなく漂って来る霧のように、雪路を覆っていってしまうのかもしれなかった。

「……冷えるな」

 東の空を見つめながら、雪路は小さく身震いする。間もなく日が沈み、夜が訪れようとしていた。

 遼遠は何も言わず雪路の肩に手を回し、その身を寄せる。

 オレンジ色の夕日が、寄り添って歩く二人を照らしていた。

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