車の向かう目的地は、中継地計画の拠点からさらに北東方向へ離れた位置。人里離れた山道の途中だった。集落まで歩く距離は都市側から向かう場合よりも長くなってしまうが、穂波たちが誰にもばれずに霧の中へ逃げ込むにはこうするしかなかった。雪路はその距離を往復しなければならない。
明け方に町を出発し、目的のポイントに着く頃にはあっという間に夜になっていた。その日の移動はここまでとし、雪路、穂波、尾研の三人は車内で夜を越す。
車は既に薄霧の中に入っているようで、真夏であるにも関わらず車内は肌寒かった。尾研が穂波のいる後部座席へ、雪路が助手席へ移動し、家具店からそのまま借りてきた毛布に包まれて眠った。
そして翌朝、こちらへ近づいて来る車の走行音で雪路は目を覚ます。
窓の外はやはり青い色の薄霧が充満していた。雪路が目を擦りながらフロントガラスの先を見ていると、暗い色の大型車がライトを点けてこちらへ走って来る。霧が滲んでいる場所をわざわざ通る車など無い筈なのに。
その車は雪路たちの乗る車の前まで来てゆっくりと停止した。誰が乗っているのかは判別出来ない。
雪路は後部座席で眠っている穂波と尾研を起こした。穂波は車の存在に気付き、安堵した様子を見せる。
「良かった。本当に来てくれた……」
「あの車に乗っているのは誰なんだ、穂波」
「キミを無事にここへ帰らせてくれる協力者」
すると大型車から二人の人間が口元を覆いながら降りて来て、こちらの車へ近づいてきた。
薄霧の向こうから現れた人物に雪路は驚愕し、慌てて隣の運転席に移り、車のエンジンを掛けた。車内に混入した霧を浄化するための装置も稼働させる。
協力者の二人とは、巣文と千崎(せんざき)であった。千崎は後部座席に、巣文は助手席に乗り込んでくる。
穂波が雪路に事情を説明した。
「雪路、キミが霧の中へついて来てくれた時のために、二人を手紙で呼び寄せたんだ。一方的に僕が頼んだだけだけど、こうして二人共キミのために駆け付けてくれた。約束通りの時間と場所に。――改めて紹介するよ。まず、巣文がキミのアンカーだ。僕が都合をつけられるのがこの人しかいなくってね。僕は向こうから戻ってこないから、キミの帰りまで保証するにはこっち側にアンカーを置かなきゃいけない」
「巣文さんが……」
五年振りに会った巣文は、雪路が最後に見た時と同じような痛切そうな空気を纏っていた。雪路は目を合わせることを躊躇う。
「そして、道具の用意と色々なサポートをしてくれる千崎。前にも言った通り、この人はキミの味方だ」
千崎は着けていた青いレンズの眼鏡を一旦外し、雪路に挨拶する。
「あの時は装備で顔がよく見えなかったが……、覚えているかい、私を。せっかく助かったのに、あの後肩身が狭くてたまらなかったよ……。その件は、私の為にすまなかった。お前が来てくれなければ私は死んでいた。ようやく恩返しできる機会が来たからな、気合入れて用意してきた。安心してくれ」
前方に停まった大型車は千崎の私物で、穂波の手紙によりお互いが協力者であることを知った巣文と事前に示し合わせ、ここまでやって来たのだった。大きな荷室に色々と装備を積んできてくれたらしい。青い眼鏡を着け直した千崎は得意気に胸を張った。
雪路は背後に居る穂波を見る。
「帰りは俺一人だと思え、って言ってなかったか」
「脅してまでついて来てもらうんだ。これくらいはしないとね。それに、巣文とキミがまた繋がれるかどうかは分からないから、場合によってはやっぱり一人だ。……キミたち、あの日から話してなかったんだろ。確かめてみなよ、繋がりが残っているかどうか」
穂波に言われて恐る恐る巣文の方を見ると、ちょうどお互いの視線がかち合った。雪路の身体に緊張が駆け巡る。
「一度アンカーとの繋がりを無理やりに切ると、再度繋がるのがすごく難しい。僕が遣わされたのは飾水がそれを懸念したからだ。拒絶の感情が相手の心の奥底にあると、催眠にかけられないからね」
本当に雪路と巣文がもう一度能力で繋がることが出来るのだろうか。既に今、雪路の内面は巣文への後ろめたさで一杯になっている。
ずっと押し黙っていた巣文が遂に口を開いた。
「……大体の事情は穂波から聞いている。正直、霧の中に人の住む場所があるとは到底信じられない。だが、お前がここまで来たということはただのホラではないのだろう。どれだけの距離があるか分からないが、千崎のサポートを受けながら出来るだけ霧の中へ入って距離を伸ばす。もう二度と、私にお前を殺させるようなことはするな、雪路」
「巣文さん、俺は……」
雪路の脳裏に、五年前のあの時――巣文との繋がりを切った時――の記憶が何度も再生される。そして、帰還した後の巣文の表情と態度を。あの時伝えるべきだったことを、雪路は必死に手繰り寄せる。
「巣文さん、……すみませんでした。俺はあの時、千崎を見殺しにさせられることが耐えられなくて、繋がりを切ってしまった。俺は、運良く帰って来れただけです。そうでなければ、巣文さんの言うようにあなたに俺と千崎を殺させるところだった」
雪路は両膝の上で拳を強く握り、俯いた。
「巣文さんにとってはきっと、そんなことを背負わせてもいいと俺が思ったことと同義だった。俺があなたを裏切った。そんなくらいなら、皆で責任と無念さを背負うべきだった」
「雪路……」
「おいそこ、私が死んでた方が良かったって方向で話を進めるなよ」
ずけずけと会話に入って来た千崎がつっこみを入れるが、巣文が反論する。
「そもそもお前が遭難していなければこんなことにはなっていないんだ、千崎」
「結果論だとしても私が助かったことは加味してくれよ。それを言うのは禁じ手だ」
千崎は身を引いてシートの隅で小さくなった。
フロントガラスの向こうを見つめながら、巣文が言う。
「……私は、お前との繋がりが切れたこともショックだったが、何よりお前のダイバーとしての道が閉ざされてしまったことが無念だった。お前が自分の親を捜すために費やした苦労は、あんなことで台無しになっていいはずがない。あの時私にはまだ道が残されていたはずだ。車を降りて、お前を千崎の下まで届かせるべきだった。そのことをずっと悔いていた」
雪路は、巣文がそんな思いを抱えているとは全く思いもしなかった。かぶりを振って巣文に訴える。
「そんな。そんなことない。どうして巣文さんが責任を感じる必要があるんです。相変わらず真面目すぎるんですよ、あなたは。それじゃあ自分の命を軽く見た人間が、俺から巣文さんに変わっただけだ」
「そうかもしれないな。だが毎回命懸けで捜索に向かっているお前たちの負担を少しでも背負えるなら、私は背負いたかった」
そう巣文が吐露して会話は途切れた。雪路は俯く。
過去の時間にはもう手を伸ばすことは出来ない。今ここで最善の道は何だったのか、誰が最も悪かったのか議論しても、それは誰にも分からない。一度切れたロープの端を突き合わせても勝手に繋がることはない。
巣文は窓の向こうを眺めたまま大きくため息をついた。
「不毛だな。では、これからのことを話そう。私はお前と昔のことを話しに来ただけではない。お前を無事に霧の奥地へ届け、帰って来させるために来た。五年前のそれぞれのやりきれなかったことを今日やり直す。それで手打ちだ」
雪路ははっとして顔を上げた。
「……! はい……!」
今手の届く場所にあるものといえばお互いの感情面だけだ。その落としどころとしては、これしかないように思われた。
雪路は巣文との繋がりを切らずに帰還する。巣文は霧の中へ足を延ばし、雪路に繋がりを切ることを選ばせない。そうすれば、過去の自分たちの無念は晴らせる。元に戻すのではなく前へ進む。切れたロープの端同士を結べば、それはもう一度繋がる。
「よし。まずは同じ方向が見れた」
引き締めていた巣文の横顔が、少し緩んだ。
「それから。私がアンカーをするからには誰に対してもそうだが、お前にも無事にここに戻ってきて貰いたい。……本当はこのことを一生言う気は無かったんだが、お前を縛るために伝える。観念して受け止めろ」
巣文が何を言おうとしているのか、急な話で雪路には見当がつかなかった。巣文の横顔を見て、緊張に身を強張らせる。
意を決した様子の巣文がこちらを向いた。
「お前の名前に雪路という案を出したのは私だ。お前は深く捉えずに選んだかもしれないが、……私はお前が雪路と名乗ることを選んでくれたのが嬉しかった。勝手に繋がりを感じていた。お前に対して」
雪路はダイバーの本試験に合格した折に、採用後の上司にあたる人物から成人の証として改名を勧められた。人生の節目でもあったので雪路はその提案に頷いたが、自分の名前を一から考え直すというのは難しく、日頃から思案もして来なかったため雪路には決めることが出来なかった。
そこで上司に何かいい案がないか尋ねると、職員たちから名前の案をいくつか集めて雪路の為に例示してくれた。この中から選ぶ必要は無いとも言われたが、そこにあった「雪路」という名に目が留まり、これを受け取ることにした。名前の案はどれも匿名で寄せられたもので、雪路が名前を正式に決めた後も提案者が名乗ってくることはなかった。
「え……、巣文さんだったんですか? 俺の名付け親って……。なのに俺が……」
そんな相手との繋がりを知らず知らずのうちに切ってしまっていたとは、捻じれた因果である。巣文が当時受けたショックは、ただの仕事仲間から受けた拒絶で済むものでは無かった。
「それはもういいという話になったはずだぞ」
巣文は過去に手を伸ばそうとする雪路を止め、名の由来を語り出した。
「お前は北部の方の町で育ったと聞いた。私は雪深い場所では育たなかったが、アンカーになってから仕事で山の方へ向かうと積雪を見ることが出来た」
巣文は現場へ向かう折に雪に埋まった道を進むこともあった。元の道が分からないので、自分達で雪の上に道を作るしかない。アンカーである巣文は霧の中を歩き回った経験は無いため、雪原を歩きながら同じく寒冷である霧の中の世界に思いを馳せていた。
「私は、どんな背景があろうとダイバーとして生きていくと決めたお前の人生を肯定したかった。そこに苦難があろうと、お前の望む道を描いて欲しい。そして雪原のイメージ。――色々と考えた末に、雪路という案を出した」
そこへ穂波が巣文を指差して言う。
「この人わざわざ辞書読んで考えてたんだよ」
そんな大袈裟な、と雪路は思ったが、巣文ならやりかねない。これは雪路が相手だからというわけではなく、巣文は相手が誰であっても誠実に手を尽くし、自分の納得のいくまで悩む。
「読んだし、それが無駄ではなかったのだからいいだろう」
そう。巣文の地道な思案は、雪路が名前を選んだことで報われた。
雪路は、巣文の願いと繋がりを踏みにじったことに罪悪感を覚えずにはいられなかったが、それを堪えて巣文に笑みを見せる。
「……この名前は、俺の大切にしている情景と繋がる言葉です。俺の想像している景色と、巣文さんが思い浮かべた景色は全く同じではないかもしれない。でもきっと似たような景色を俺たちは見てたんだと思う。それが知れて良かった……。俺は……、この名前が貰えて良かったです」
「……そうか」
幼い頃のハルカが飾水と見た景色と、雪路が遼遠と一緒に同じ場所で見た景色、そして巣文が雪路に見た情景はそれぞれ違う。違うが、それぞれが遠くの風景に際限のない広がりを見て、希望を感じていた。それはどこかで重なっている。雪路は、自分の世界と地続きの場所に巣文がいるということを理解した。
穂波が運転席と助手席の間にひょっこりと顔を出す。
「それじゃあ、時間もないしそろそろ試してみようか」
会話が落ち着いたところで、二人が能力で繋がれるかどうかの確認に入った。
「雪路、キミは無理に意識しようとするな。リラックスして、巣文がロープを掛けられる隙間を見せてやれ」
「言われると逆に気になるからやめろよ……」
巣文と向き合った雪路は、深呼吸して気持ちを切り替える。眠る前に近い状態まで一度体の力を抜き、催眠にかかりやすい状態になる。
雪路の両肩に手を置いた巣文は、念じるように静かに目を閉じた。
アンカーと繋がっている側の感覚には個人差がある。手に繋がっていると感じる者、ハーネスのように感じる者、アンクレットのように感じる者。
雪路はアンカーが誰であっても、いつも首輪をつけられているように感じていた。――今までは。
「あ……?」
奇妙な感覚を覚えて、雪路は浮遊させていた意識を手元に戻した。
「よし……、どうにか繋がった。ありがとう、雪路……」
巣文がゆっくりと肩から手を離す。その表情は感極まっていた。雪路が巣文の力を受け入れ、再び繋がることが出来たのだった。
アンカー側が繋がったと言うのだから繋がったのだろう。雪路は未知の感覚に理解が追い付かず、曖昧に返事をする。
雪路の肩には、もう触れていないはずの巣文の手の感触が残り続けている。振り払えば消えてしまいそうな儚さで、一方で手の微かな重みが不安から庇ってくれるような、そんな繋がりが――。
無事にアンカーの力による雪路の帰還計画が軌道に乗り、車に乗る面々は安堵した。
巣文とのわだかまりが解けつつあるのを感じた雪路は、先程から気になっていたことを尋ねる。
「巣文さん、そういえばガードの人はどうしたんです?」
アンカーの行動先には、穂波に対する尾研のように一人のボディーガードがついて来ているはずだった。しかしここに巣文のボディーガードの姿はない。
巣文が真面目な顔つきを崩して、ふっ、と得意気な笑みを浮かべた。
「私は日頃の行いがいいので監視が甘いんだ。小旅行に行くと言い数日の休暇を取って来た。完全なプライベートだ。旅行もあながち嘘ではないしな」
「へえ」
そこへ千崎も入ってきて、訊いてもいないことを教えてくれる。
「私は日頃の行いが悪いし、プロジェクトの作業の予定も入っていたが、休暇は権利なので堂々と休んできた。長引くようなら仮病もするぞ」
「千崎も、ありがとうな」
「少しでも恩を返せるなら安いものさ。試したいこともあったしな」
一度全員で車を降り、千崎たちの乗って来た大型車の荷室を見に行く。
そこには、霧の中で活動するための人数分の装備と、大量のロープが巻き取られたウインチ(巻き上げ機)が二つ積まれていた。他にもロープの束が大量に用意されている。
全員にひとまずマスクと空気シリンダーを配った千崎は、意気揚々と荷物を紹介する。
「昔はアンカー能力者の存在なんて知られていなかったんだから、霧の中の調査はもっとアナログな方法で行われていた。アンカー能力で繋がっていられる限界距離には大きく劣るが、グラス以外の研究機関は今でもこれだな。海で使うロープを命綱にして体に括り付け、歩き回れる水の中へ潜る。これが本来の意味でのアンカーというわけだ」
装備は一部支部から拝借したものもあるというが、その殆どが千崎が元から購入していた私物で、いつか個人的に霧の中へ潜ろうと画策していたらしい。遭難して命を失いかけた恐怖よりも、青い霧への興味が次第に上回ってしまったという。
懲りていない千崎に雪路と巣文は呆れかえってしまったが、協力を仰げる相手の中でここまでの準備を即座に行えるのは千崎くらいなものだ。雪路たちは今回のみ目をつぶることとした。
さて、穂波の考えたプランはこうだ。
まず、千崎と千崎の車はこの場に残り、そこからウインチのロープを繋いだ尾研の車が残りのメンバーともう一台のウインチを乗せて霧の中を徐行する。ロープの長さが限界になるか、車が進行不能な地帯まで進んだら、巣文が尾研の車に待機し、残りの三人が霧の中へ進行。それを見計らって千崎もロープを追って巣文と合流する。
もし雪路と巣文の繋がりが限界地点を迎えそうになったら、ウインチのロープと繋がった巣文が車を降り、雪路の反応を追う形で距離を伸ばす。それでも距離が足りなければ千崎が別のロープを可能な限り継ぎ足し、更に距離を伸ばしていく。穂波の計算では、雪路と巣文の限界地点の距離が五年前と同等であり、千崎が用意したロープの合計距離――これも穂波が指定し、用意させた――と合わせれば、集落までは十分足りるだろうということだった。
そして雪路が帰って来る時は、それを感じ取った巣文がロープを回収しながら少しずつ車へ戻り、千崎と合流。車のライトと巣文の強制力を用いながら雪路を誘導し、合流する。その後尾研の車は乗り捨て、全員が徒歩でロープを辿りながら千崎の車まで戻ってくる。その際に尾研の車に繋がれたロープは外しておき、千崎の車側のウインチで巻き取って回収する。
これで穂波と尾研がこのポイントから霧の奥へ逃げたという手掛かりは霧に隠ぺいされ、簡単には発見されない。ウインチも一台使い捨ててしまうことになるが、穂波がアンカー業で稼いだ報酬を諸々の経費として千崎に支払うのだという。
穂波からの報酬をその場で一切断った巣文は、思わず千崎に忠告した。
「不自然な金の動きですぐにばれるだろ。しかも失踪しているはずの穂波の口座に手続きの形跡が残る。下手をすればお前が穂波たちの失踪に関わったと疑われるぞ」
もっともな指摘に、穂波が補足する。
「都市方面を離れる前に可能な限り引き出して、とある場所に隠してきたんだ。あとは、僕らを探す人たちが口座の動きを見て、単純に失踪資金にしたんだと誤認して終わることを祈ってくれ」
「――だそうで、先程宝の地図を頂いた。慎ましくかつ迅速に使わせてもらうよ。フフ、どうも悪魔の囁きに乗ってしまう人生なようだな、私は」
「全く、何というやつらだ。私は今の話を聞かなかったことにする」
五人は装備に身を包み、プラン通りに動き始める。
今回の目的は行って帰ってくることであるため、雪路の荷物には救助用の道具は積まない。その代わりにシリンダー用の替えのフィルターと、各種装置を稼働させるためのバッテリー、飲用水等をなるべく多く持って行く。
「僕の案内無しに辿り着ける人がこれから現れるかは分からないけど、これから向かう場所については今後も世間から放っておかれてほしい。だから無線での通信は一切控えてくれ。雪路のことは心配だろうけど、連絡は取り合えない。あくまでアンカーは最終手段だ。音波装置も、雪路が無事に帰って来れた後でデータを抹消して欲しい。キミたちも無闇に証拠を残したくはないだろうしね。巣文も千崎も、いずれ僕らの向かう場所に検討がつくだろうけど、それはどうか胸の内に仕舞っておいて欲しい」
穂波の言葉に頷きつつも、巣文が尋ねる。
「雪路が万が一帰って来れなくなった場合はその約束は守れないが、いいか?」
千崎は経過時間による計算でしか集落の場所を予想できないが、アンカーの能力で雪路の現在位置がおおよそ把握出来る巣文は、穂波たちが逃げ込む場所もはっきりと知ることになる。
「そうならないためにも、しっかり雪路は帰すよ」
中継地点計画の要であるアンカーの穂波が失踪した場合、その後の動きがどうなるかは不明である。
これから何十年、何百年かかろうと、機関やそのスポンサーが未開の土地を諦めなければ、いつの日か穂波たちの住まう集落の存在が明らかになるかもしれない。その日が来るまで、ここに集った全員はこのことを他言しない。
千崎以外のメンバーが漆黒の車に乗り込み、尾研の運転で道路脇の斜面から木々の合間を進んでいく。
霧が濃くなってきたところで巣文と繋がった状態の雪路が降り、先行して障害物を探知しながら車を誘導した。
木々が密集してきたところで進行不能となり、車は停止する。今度は車に巣文のみを残して、三人が出発する番になった。
お互いを見失わないようにしつつ、穂波と尾研も車を降りて雪路と合流する。
「尾研、キミのアンカーは僕だ。……なんてね。僕たちは一緒に動くわけだし、巣文の力の邪魔をしちゃうから……これだけ」
穂波は右手を伸ばして尾研の左手を探し出し、手を繋いだ。尾研が握っていたポールが一本足元に落ちる。
「穂波」
「キミが安心できるところへ行こう。僕に付き合ってくれた分の何千倍、何万倍でも、ずっと遠くの時間まで一緒に行こう」
「ありがとう、穂波……。喜んで。いつまででもお供します」
ここから集落までの道は、穂波と尾研が先行し、雪路がその後を追う。
「はぐれないように足音を追ってきて。出来る?」
「鈴もついてるんだろ? 余裕だ」
道先案内のある状態で霧の中を歩いたことなど――飾水との一件を除けば――雪路にはない。勿論雪路も独自に脳内地図を作りながら進むが、気負っていたよりも道中の進行は気楽だった。救助目的でもないためジグザグに行く必要もなく、穂波たちの後を追って効率的に山の奥へ向かっていく。
「よく道を覚えてるな。何年も前に通ったんだろ」
「一度行くと不思議と覚えられる道なんだ。僕にも出来るんだから、キミも簡単に覚えられるよ。帰りは体力の心配をした方がいい」
確かに、不安なのは体力の方だった。穂波や尾研は霧の中を歩くのは久しい上、ダイバーに比べたらスタミナがあるわけではない。山の奥へ向かうに従って傾斜もきつくなっていく。
先行する二人の体力に合わせて何度か休憩を入れるが、雪路も現役の頃より大きく体力が落ちているのを自覚した。ダイバーの仕事は動的かつ持続的な運動になるが、工房での仕事はどちらかと言えば瞬発的に力を入れる運動が多く、視覚に頼るものなので労働環境が真逆に近かった。
「どうして飾水は、こんなところを俺が歩けると思ったんだ」
このルートは十八年前に雪路が通ったものとは違うそうだが、それでも六歳の子供が歩くにはどのルートでも大差ない過酷さだろう。何故飾水が当時のハルカに対してそんな無謀なことさせたのか、雪路には理解できない。
「ああそれ、本人に歩行能力があればどうにでもなるんだよ」
穂波が人を集落に連れて行く方法を簡単に教えてくれた。
繋がる相手に歩行能力があれば、強制力で無理やり歩き続けさせることが出来る。これは実際にアンカーがダイバーを救出する際にも使われるが、それとは程度が違う。
集落の能力者が人を連れて行く場合は、催眠で本人の感じる限界を有耶無耶にして、体力の限界を超えても歩かせる。どれだけ濁った霧を吸い込んでも、体がぼろぼろになっても、命を落とす前に集落まで辿り着いて澄んだ霧の中で過ごせば、瞬く間に健康な体に戻れるからだ。
今の時代ともなれば霧の中を動き回れる装備が存在し、そんな命懸けの方法を取らずとも今の尾研のような形で集落に連れて行くことが可能になった。しかし、誰しもがその“面倒”な方法を選ぶかといえば否である。
雪路は黙って穂波の説明を聞いていた。そして、自分の中で揺らぎかけていた飾水に対する親愛の念がとうとう冷水に浸され、白く細い煙が立ち上っていくのを感じた。
出発から五時間程歩き続けると、スポットに近づいているせいなのか微風を感じるようになる。
そこからそう長く歩かないうちに、霧の境界線と言われる地帯に辿り着いた。
にわかにではあるが、先行する穂波と尾研の背が青い霧の中に見え始める。霧の濃度が上がり、透過するようになってきているのだ。穂波の言っていたことは本当だった。
まだ雪路と巣文の繋がりの限界地点は迎えていない。向こうで千崎と協力して距離を伸ばしてくれているようだ。プランは上手くいっていた。
視覚情報があるだけで圧倒的に歩きやすくなる。集落が近いことが分かった三人は、進むペースを上げた。
「見えてきたよ!」
境界線から歩いて二時間弱。穂波の指差す前方の木々の隙間から、人工物――小屋のようなもの――が見え始める。さらにその向こうには青白い光がぽつぽつと浮かんでいるようにも見えた。
山中の景色はもう十分見渡せるようになっていた。青いセロファン越しに見るような視界ではあったが、本当に霧の中にいるとは思えない。加えて、一帯が途切れることのない風に吹かれ、草木が大きく揺れている。
雪路は、千崎が青いレンズの眼鏡を掛けていたことを思い出していた。霧の中へ調査に入れない間も気分だけは浸りたくて着けているそうだが、あながち間違っていなかったのかもしれない。このことを教えたら千崎は喜びそうだが、確認したいあまり霧の奥へ向かって今度こそ死んでしまいそうなので、雪路は黙っていることにした。
辺りを見渡していた尾研が、感じ入った様子で呟く。
「ここが、穂波の暮らしていた場所……」
集落の入り口へ近づいていくと、他の建物も続々と木々の隙間に見え始める。
霧に飲み込まれる前に生活が営まれていた地帯には当時の建造物が残っていることがしばしばあるが、ここまでの奥地に来て住居が置かれているなど、本来有り得ないことだ。しかも廃屋ではなく、ある程度人が手入れをして生活していると思われる小屋がいくつもある。
尾研はどこか高揚した気持ちを抑えられない様子だったが、雪路は激しい違和感と緊張を感じていた。自分はもう、異世界に足を踏み入れてしまったのだ。
穂波が背を向けて先行したまま雪路に呼びかける。
「雪路、キミは今巣文と繋がった状態だし、マーキングも残ってるから催眠で横入りされることはないと思うけど、念の為注意して。ここにはアンカーの素質を持った人間が多いから」
「注意してって言われてもな」
「巣文との繋がりを意識して、迫ってくるそれ以外を拒絶すればいい。君は二度も繋がりをはねのけてるんだから感覚的に分かるはずだ。――それと、僕と尾研は後でシリンダーからの呼吸を止めるけど、キミは帰るつもりなら絶対に霧を吸うなよ」
「あの、穂波……。私たちも繋がっていた方が安全なのではないですか?」
話を聞いていた尾研が不安そうに尋ねた。
「問題なのは飾水なんだよ、雪路相手に誰を使って何をしてくるか分からないんだから。尾研も一応用心するに越したことは無いけど、キミがここに居座ることを知れば誰も縛ろうとは思わない。ここはそういう決まりだからね。慣れるまでは不安だろうけど、僕がついてる。キミに手を出すようなやつがいたら僕が許さない」
「わ、わかりました」
集落からは霧の外へ出る為のいくつものルートが形成されているらしく、集落の周りに囲いなどもないため明確な出入り口などは作られていない。
三人は集落の曖昧な入り口をいつの間にか通り抜け、ある建物を目指した。「花園」と呼ばれる、周囲の住宅よりも大きな家々のうちのひとつだった。そこに飾水がいるらしい。
「ひっ」
歩いていた尾研が突然短い悲鳴を上げた。雪路がそちらを見ると、尾研の足元に子供が倒れていて、うっかり蹴ろうとしてしまったようだ。
「ああ、寝てるんだ。気にしないで」
穂波が平然と言った。ここに暮らす住人はどんどん心身の感覚が鈍っていき、活動する意欲も失っていくため、生活の殆どの時間を眠って過ごしているという。中には活動的な心が消えない者もいるが、それは一握り。そういった珍しい人間たちがこの集落の手入れや、新顔の面倒を見て暇を潰しているらしい。
雪路が周囲に目を凝らすと、実は風景の中に大勢の人間がおり、誰もかれもがぼーっと立ち尽くしていたり、地面に横たわったり、建物の壁に寄りかかるようにして「生活」していた。その全ての気配が薄く、まるで木や岩のようである。
雪路は霊の類を見たり感じたりしたことはないが、雰囲気としてはそれに似ているのではないかと思った。酷く気味が悪くなったが、ここで暮らしていくつもりの二人を前にしては何も言うことが出来ない。
穂波が「花園」の正面のドアを開け、二人を招き入れた。ドアを閉めると風は止んだが、建物の中にも澄んだ霧が充満していて、やはりどこもかしこも青い。天井の高い通路が、入り口から奥へ伸びていた。
建物の内装は煩雑としているというか、かなり物に溢れていた。ケースや棚に色々な美術品やインテリアが飾られているようだ。視界が開けているとはいえここは霧の中である。こうして飾っていてもあっと言う間に痛んでしまいそうだ、と雪路は思った。
穂波が飾水の依頼を受けてから十八年余り経つ。外から見ればそれなりの時間だが、この集落で永遠の時を過ごす人間にとってはあっという間だっただろう。穂波は大きな声で飾水を呼んだ。
「飾水ー! いるー?」
こんなに急に訪ねて出て来るものなのだろうか。そして、飾水はどんな様子なのだろうか。雪路の緊張はピークに達しつつあった。
通路の奥からは返事も、物音もしない。
「流石にこの様子では居ないのでは?」
「いや、居るよ」
尾研の手を引いて穂波は通路を歩き出す。雪路はその後を追う。
通路の突き当たりから右手に階段が続いており、三人はそこから二階へ上がった。階段を上がった先にはドアのない部屋がいくつか繋がっていたが、穂波はかつて飾水と話した部屋を思い出してそこへ入って行った。
「飾水!」
「……おかえり、穂波。よく戻って来た」
部屋の奥で佇んでいた飾水は、穂波の呼びかけに振り返って薄っすらと微笑む。
飾水は、雪路と生き別れた後も霧の外の世界で生きていれば間もなく六十代を迎えるはずだった。しかし、その外見は雪路の記憶の中の姿とほぼ変わりなく――恐らく、全く変わりがなく――四十一歳の姿をしていた。
「嘘だろ? ほ、本当に、時間が止まってるのか……?」
雪路は幻を見ているような気になる。「だから言ってるじゃないか」と穂波が小声で答えた。
「飾水、頼まれた通りハルカをここへ連れてきたよ。今は雪路っていう名前だけど、本人だ。声を聞けば分かる」
穂波が前を空けて、雪路にここへ来るように促す。
雪路は恐る恐る前へ進み、目の前の大きなテーブルを挟んで飾水と向かい合った。
「……か、飾水、なんだよな? 本当に……」
その声を聴いて、飾水は顔を綻ばせた。
「ああ、確かにハルカだ。――そう、私だよ、ハルカ。よくここまで来てくれた」
「……」
感動の親子の再会、暖かい気持ち、交わされる抱擁。そういったものがあるはずであったが、雪路はそこからもう一歩も飾水に近づこうという気にはなれなかった。
雪路の見ていた景色の先――雪路の居る場所から地続きにあるはずの世界のどこかで待っている飾水は、こんな姿をしていない。ここは、現実と地続きの世界ではない。
黙り込む雪路を見て、飾水は穂波と尾研に「もう帰って良い」と伝えた。
「僕の幽閉の件はどうなったの?」
「勿論無しだ。きちんと勤めを果たしてくれたからね。そこの……、新顔のお前も集落に居ていいよ。また今度ここでの生活のことを教えよう」
尾研は緊張に身を縮め、黙って一礼した。
部屋を出て行こうとする二人を、雪路が呼び止める。
「もうここでお前たちとお別れか?」
「キミが帰りやすいように、さっき来たルートの出入り口のあたりで待っててあげるよ」
「そうか。悪いな」
雪路は、部屋を出た二人が階段を降りていく音を聴く。
飾水は雪路に対して、テーブルの両端にある椅子の、向かって左側に座るように言った。
穂波と尾研は一足先に「花園」を後にする。
来た道を引き返して約束の出入り口のあたりまで到着し、そこで雪路の帰りを待つことにした。
すると、与えられた役目を終えた穂波が頭部の装備とマスクを突然外して、澄んだ霧の中に直に顔を出す。驚きに目を見開いた尾研をよそに、穂波は何度か深呼吸をした。
澄んだ霧が効き始めるまではまだ時間がかかるが、肺の中、そして体全体にそれが染み渡っていく心地を穂波は味わった。装備を外して直に触れる霧は驚くほど冷たい。
「わあ~、寒い! 寒い!」
穂波ははしゃいだ声を出して、尾研に抱きつく。
「尾研は心の準備が出来たらでいいよ。最初は肺の空気を全部入れ替えるみたいに大きく呼吸して。中途半端に取り込むと苦しいから」
「は、はい……!」
尾研はシリンダーの空気で最後の深呼吸をして、決意を固めた。穂波の手本を真似て、装備とマスクを剥ぎ取る。あまりの霧の冷たさに体が固まりそうになるが、落ち着いて深く呼吸を繰り返した。
尾研の肺の中を澄んだ霧が満たしていく。鼻や耳の穴も、髪の隙間も、全てが青で満たされていく。青い世界の一部になっていく。
どこか恍惚とした響きで、尾研は言った。
「寒いです……」
「大丈夫、そのうち慣れて寒さを感じなくなるよ。寒さ以外のことも、そのうち……」
凍える身体を暖めるように、穂波は一層強く尾研を抱き締めた。
部屋の内装をよく見ると、ここにも多くのものが秩序なく入り乱れるように飾ってあった。
紫陽花柄の織物、たんぽぽの花を模った髪飾り、紫苑が写った写真、白百合の絵――。観察すると、どれも花にまつわるものだった。ここが「花園」と呼ばれる所以は、このコレクションによるものなのだろう。
テーブルの反対側に座る飾水が話し出すよりも先に、雪路は口を開いた。
「俺はここで暮らすつもりはない。穂波に頼まれて仕方なく来ただけだ」
飾水は少し驚いた様子で、しかし落ち着いた雰囲気は崩さずに小首を傾げて見せる。
姿は十八年前のままだが、仕草や表情の変化は昔に比べると微細で、間延びしたように感じられた。先程聞いたしゃべり方からしても、声の抑揚が弱い。
「穂波から色々聞いたけど、俺は十八年前のあの日のことをよく覚えていない。その時飾水との繋がりを切ったということも、悪いけど覚えてない」
飾水はゆっくりと首を振った。
「そんなことはいいさ。私はお前が実際にここに来てくれただけで十分なんだ。どうやら穂波は、勘違いしたままお前に話したようだな」
雪路は眉をひそめる。
「勘違い……?」
「私はお前と暮らしたくてここに呼んだんじゃないよ」
どうやら、聞いていた話と違うようだ。だとしたら何の用があって飾水は雪路を連れて来させたのだろうか。
「さっき言ったように、お前がここに来てくれただけでいいんだ。一緒に暮らせたら、それは勿論いいかもしれないが……、そこまでは望みはしないさ」
「ここで当時の話をしたいとかでもなく?」
「ああ。お前がここに来てくれた時点で、私の願いは叶った」
雪路は急に胸騒ぎを感じ始めた。帰る意思を見せるように、椅子からおもむろに立ち上がる。
「……なら、俺は帰る。再会出来たのは……まあ、良かった。気が済んだ。飾水は飾水で、ここで元気に暮らしてくれ。俺は向こうで帰りを待っている人たちがいる」
飾水は雪路の態度に焦る様子が無かった。
「その人たちが大切なんだな」
「そうだ。飾水がいない間に俺は色々なことがあった。……本当は全部聞かせたいくらいだ。その間に俺を支えてくれる人たちにも恵まれたし、愛している人もいる。ここは向こうとの繋がりが切れた世界だ。俺はここにいる理由が無い」
「そう」
さっさと部屋の出口に向かう雪路の背に、飾水が語り掛ける。
「私はお前のことを特別だと思って、どうしてもお前にこれを贈りたかったんだ……」
「これって、何を」
雪路は振り返って飾水の顔を見る。飾水は穏やかな笑みをこちらに向けている。
「薬だ。――不老不死の薬。この集落の存在をお前に教えてあげたかった」
「……どういうことだ」
「ここは不思議な場所でね、一度来ると自然と場所を覚えられるんだ。使ったことがないルートに入っても辿り着くことが出来るようになる。お前はもう、ここの存在を忘れることは出来ない」
この集落にいると肉体の時間が際限なく引き伸ばされ、永遠を生きられること。そして集落への道は一度行けば覚えられることは、穂波から聞いた通りだ。しかし何故、雪路にこの場所を覚えさせる必要がある。
「別に薬を使えとは言っていない。私はお前に薬を渡しただけだ。ここに至るための道を教えただけだ。――だけどね、ハルカ。そこに道があることを知っているかどうかでは、人生は違って見えてくる」
「俺にいつかここで暮らせって言ってるのか?」
「だから、そうは言ってない。それはお前に選ぶ権利がある」
飾水が言わんとすることが何なのか、雪路には掴み切れなかった。胸騒ぎがどんどん大きくなっていく。
「俺はここでの暮らしなんていらない。帰る。今すぐに……」
雪路は再び背を向けて今すぐ部屋を出ようとする。
そこへ、飾水が穏やかな声でこう言い放った。静かに、氷のような手でその肩を捕まえるように。
「それで、その愛する人が死んでしまう時はどうするんだ、ハルカ」
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………は?」
雪路の頭の中が、真っ白に凍りついていく。
飾水はそのままの様子で続けた。
「花はいつか枯れるんだよ、ハルカ。枯れるのが悲しいなら、触ってはいけない」
人はいつか死ぬ。
ずっと一緒にいることを約束した遼遠も自分も、いつかは死ぬ。
雪路は何も考えられなかった。見えているはずの視界が何が何なのかわからず、耳に入る音がどれも遠くなっていく。呼吸の仕方も、分からなくなっていく――。
飾水に背を向けたまま、胸の中に膨らんでいく不安に耐えられず雪路は叫んだ。
「そんな、そんなの、耐えられるわけが無い! 何でそんなことを言うんだ飾水。そんな分かりきったことを……!」
「私は別に、愛する人を失って悲しめと言っているわけじゃない。お前に渡した薬は一人分じゃないんだよ、ハルカ。わかるかい。使うかどうかはお前が決めていい」
「何を……」
飾水が雪路に贈ったのは不老不死の薬。ここでの永遠の生を得られる権利。そして――。
「俺は……、俺は帰る。俺の帰る場所に……」
狼狽した雪路はもがくように部屋を出て、階段を駆け降りる。
「ハルカ」
階段の上から顔を見せた飾水が、こちらを見送ろうと佇んでいる。
飾水の向ける何らかの期待を振り払うように、雪路は低い声で別れを告げた。
「俺の今の名前は雪路だ、飾水……」
「すまない。そうだったな」
そう謝った飾水の顔を見ることなく、雪路は「花園」を一目散に飛び出して行った。
集落の奥から、雪路と思われる人影がこちらに近づいて来ていた。この集落で機敏な動きをしている人間は異様に目立つので、穂波はすぐに見分けられた。
「あ、雪路! こっちこっちー!」
しかし、こちらへ早足で向かって来る雪路はどうも様子がおかしい。
青に染められた視界で目を凝らし、雪路の表情を遠目に覗いた。瞳の中で激しい恐怖を抱えた光が揺れているように見える。
「あの目……。飾水め、やっぱり雪路に何か言ったんだな。何か酷いことを……」
「え……?」
尾研はそれを聞いて、こちらへ歩いてくる雪路にどうにか焦点を合わせた。
「あれは……」
尾研ははっとする。薄暗い青の中に浮かび上がった雪路の表情に、自分と似た陰りが見えた気がした。
雪路は二人に目もくれず、帰り道を目指して迫ってくる。
こちらに挨拶もなくそのまますれ違おうとしていたため、尾研は雪路の腕を咄嗟に掴んだ。
「雪路!」
雪路は何の反応もない。ただ腕が木の枝に引っかかったような、そんなどうでもいい感覚で尾研に腕を掴ませ、立ち止まっている。
尾研が雪路に見た陰は見間違いではなかった。そこには絶望の闇が薄っすらと漂っている。
虚空を見つめる雪路に向けて尾研は怒鳴った。
「雪路、聞け! 私は気付いた時には戻れなくなっていた! でも、お前はまだ戻れる! 戻してくれる人がいる! それだけ覚えて、他にここで見聞きしたことは全部忘れろ! いいな!」
やはり雪路はぴくりとも反応しない。尾研が腕を離すと、雪路は引き寄せられるように帰路を辿り始める。
足早に青の中へ消えていく雪路の背に、穂波も叫んだ。
「雪路! いざとなったら巣文と千崎がキミを引き上げてくれる! 落ち着いて歩けば必ず帰れる!」
雪路からの返事はない。
穂波と尾研は手を取り合って寄り添い、雪路の消えた方角をいつまでも見つめ続けた。
いつまでも――。
一面の青い世界を、雪路は溺れるように進んでいた。
呼吸が不規則に乱れ、ただでさえ不明瞭な視界が滲んで見える。
視界が滲んでいる? 雪路はいつの間にか、訳も分からず涙を流していたのだった。
子供のように声を上げて喚きながら、脚だけは懸命に動かし続ける。霧の外で待っているはずの、あたたかい光を求めた。
「ああっ……、わああああああ…………! うああああああっ…………!」
会いたい。今すぐ遼遠の下へ帰りたい。抱き締めたい。もう離れたくない。遼遠。遼遠――。
そこへシリンダーの交換を知らせるアラームが鳴る。雪路は足を止めず、嗚咽しながら的確に管を切り替え、エアフィルターのスイッチを入れた。
自分が冷静なのか狂っているのかわからなかった。
「あああっ、うう、……遼遠! 嫌だっ……! 遼遠……! うあああっ……!」
装備のトラブルが解消されると、また抑えが効かなくなって雪路は大声で泣き始める。
泣くことも歩くこともやめたくない。雪路の欲求が直に反映された脚と頭が、それぞれ別の生き物のように感じられた。腕は体の傾きを修正しながら、助けを求めるように宙を彷徨う。
濃霧はまだ続いている。雪路は体が覚えている通りに進み、一心不乱に視界の利かない山道を下る。
穂波の言った通り、道は簡単に覚えられた気がした。雪路は、自分がこんなに迷いなく霧の中を歩けるだなんて思っていなかった。走ってしまうことだって出来そうだった。
その代わりに、霧の中でこれ程心細い思いをしたことはない。少しでも早くここから帰りたい。絶対に帰還出来るという確信がありながら、何故ここまで先急ぐ必要があるのだろう。雪路を急かすものは別にあった。
ああ、遼遠に早く会いたい。遼遠に会って、そして俺は。俺は――。
心臓が潰れてしまいそうな程痛い。装備に守られているはずなのに、雪路の身体はつま先から頭まで氷のように冷えて震えている。身体に酸素が回っていないせいだった。
落ち着いて呼吸をしようにも鼻は詰まり、口を開ければ声を上げてしまう。
「どうしてっ……、どうして俺に……、っ、俺にこんな道を教えたんだあああああ!」
青い霧で覆われた世界に、雪路の泣き声が短く反響する。
冷土にて、その悲痛な叫びを耳にした者は、雪路の他に誰もいなかった。
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