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冷土にて―夜の章― / 第七話 潮汐

 立織を森へ置き去りにし病院へと戻った穂波とミナトは口裏を合わせ、職員たちに次のように話した。


 立織とミナトはいつものように穂波を見舞いにやって来た。

 穂波の病室を出た後、ミナトは立織から「先に車へ戻っているように」と言われた。車の鍵を預かり一人で車で待機していたが、いつまで経っても立織はやって来ない。

 不安に思ったミナトは病院に戻り立織の姿を探すが、見つけることが出来ない。再び穂波の病室に戻って立織の行方を知らないか尋ねるものの、勿論穂波にも分からなかった。穂波も自分のボディーガードである人物の身に何かあったのではと胸騒ぎがし、一緒に探しに行くことにする。

 二人は病院を抜け出してその周辺を探し始めるうちにどんどん場所を離れてしまい、今の時間まで道に迷ってしまっていた。

 早急に病院の職員に知らせるべきだったが、ただ行き違いになっていただけであれば後で立織に叱られるため、無用な騒ぎは起こしたくなかった。不安で冷静になれなかった。

 その上、まさか未だに行方が分からないままになってしまうとは思わなかった。立織のことを探して欲しい、と――。


 ミナトは車へ傘とレインコートを取りに行く前に、監視カメラのあるロビーや待合室を敢えて通過して、少なくはあるがアリバイを作っていた。供述と実際の事実では行動順がちぐはぐになるが、監視カメラの時間と合うように他の行動の時間を少しずつずらして申告した。

 病院を抜け出したことについて穂波はきつくお叱りを受けたが、二人が子供であることもありその場での深い追及からは逃れることが出来た。まさか目の前で項垂れている子供たちが大人一人を間接的に殺害しに行ったとは、誰も思いもしなかった。

 この状況からいきなり森の方まで捜索が行くことはないだろう。まずはこの病院、職場と自宅の周辺、街の中から捜されるはず。丸三日経っても見つからなければ確実に立織は息絶えている。

 穂波とミナトは恐ろしく長い三日間を祈るように過ごした。毎日代わる代わる大勢の大人が当日の詳細を聞き込みに来るが、二人は怪しまれることがないよう懸命に応じる。

 犯行から三日経ち、それでも足りないような気がして一週間目まで待ち、十日間待ち……。

 百日待っても、一年待っても、立織が見つかったという報告は届かなかった。

 日常的に見舞いに来る習慣を絶やさないようにしながらも、二人はずっと生きた心地がしない。

 病室で顔を合わせ、そこに二人きりであることを確認した時は静かに抱擁を交わし、励まし合った。


 立織の行方を捜すにも手掛かりは少なく、都市中を探しても見つからないことから捜索の規模と頻度はどんどん縮小していった。

 立織はグラスが雇っているボディーガードであったが故に、一般人よりも霧の危険性は理解している。急に頭がおかしくなったとでも仮定しない限り、一人で森の中へ入るなんて考えられない。

 グラスが何の情報もなしにダイバーを霧の中へ向かわせることはない。死体が見つかるとしたら、同一のポイントに向かって無関係の対象を救助に行き、その際偶然発見される場合だ。

 けれど穂波が使ったルートは集落に向かって無駄なく進む道だ。道も分からず闇雲に進むことを考えたら、それなりの奥地になる。ダイバーが森の入り口からしらみつぶしにウロウロと彷徨いながら進むとして、死体のある近辺まで行くのは相当な体力がなければタイムリミットになるだろう。

 それに相手は動かぬ骨だ。気配も音もないのなら遠方から発見しようがないし、生存者が近辺にいればそちらが優先される。

 捜索が活発になる行方不明直後を乗り切れたのだ。いつか発見されてしまうとしても、立織だとは気づかずに処理されるかもしれない。まだかなり時間は稼げる。

 ミナトを直接脅かす者は消えた。しかしミナトの苦しみは消えない。その後も立織から数々の加害を受けた記憶が時折鮮明に蘇っては、ミナトの心を苛み続けた。毒のようにしぶとく、命が擦り切れるまで終わらない苦しみが、いつまでも。

 見舞いに訪れるミナトは、穂波に対して自分の弱った面を見せるようになり、二人きりの時に胸の内をぽつぽつと語った。

「――私は痩せ細る筆のようなものです。水を大きく蓄える柔らかな毛が摩耗し、硬い芯の毛だけが残る。貧相で、不格好な線を引く……。本当は自分がどんな線を引けるのか知らないまま、気づいたらぼろぼろになっていて、もう何も出来なくなってしまった」

「僕の知り合いに、変なものを集めるのが好きな人がいるよ。そういうキミでも、価値を見出してくれる人はどこかにいるんじゃない?」

「あなたから見て、私に価値はありますか」

「僕の答えで救われるくらいなら、キミはとっくに救われてるよ」

「そうですね。私は言葉で救われることなんかない。綺麗事があるのはいい。励まされるのもいい。――でも現実は、私に微笑まないから」

「キミの望みって何なの?」

「望まれないこと。ただそこにあり、何も感じずにいられること。私の頭の中にある忌まわしい記憶を全て忘れて、せめて空っぽになりたい……」

「……ミナトは、本当にそれでいいの?」

「希望があることよりも、恐れがないことの方がよっぽどいい……」

 それは、深い絶望だった。

 これでは見舞いをする側とされる側が逆だ。穂波は、こことは違う場所でいいから治療を受けるべきだと言った。けれどミナトは、どんな些細な情報でも穂波以外には伝えたくないと言ってその忠告を拒む。

 立織に対して最も殺害の動機を抱えているのはミナトだ。ミナトはどんな線からでも犯行が明るみになることを恐れ、周囲に対しては自宅で親の帰りを待ち続ける哀しい子供を演じ続けていた。

 穂波があんな衝動的な方法ではなく、ミナトを巻き込まず、立織を徹底的に葬り去ることが出来れば、今のミナトは少しでもマシになっていたかもしれない。

 穂波は自分の催眠能力でミナトの深層心理にはたらきかけてみようかと思ったが、ミナトの心に新たな痣をつけることと同じような気がして躊躇われた。

 抱擁し、憐れなミナトの背を撫でながら、穂波はある確信を強めていく。

 この子こそあの集落に馴染めるかもしれない。あの場所でなら、ミナトは穏やかに生きられるかもしれない。自分が見出だした特別な存在は、ミナトなのかもしれない……。

 穂波は、またミナトがここへ来た時に自分の正体を明かすことを決めた。


 病室のドアを閉め、ベッドのカーテンも引いて二人の身を隠すようにしながらミナトを傍に招き寄せる。二人並んでベッドに腰かけた。

 話があると告げ、穂波は声を潜めて自分の生い立ちを語った。

 青い霧の奥にある秘密の場所。永遠を生きる者たちが暮らす集落――。そこから穂波はやって来たのだという突拍子もない話を、ミナトはすんなり受け入れる。

「私、信じます。その話を……」

 死体を捨てる場所として霧の中を思いつくことはあっても、実行に移せる者はいない。死体を運ぶ自分も帰って来れなくなる愚かな方法だからだ。

 何故穂波が立織を殺す方法として霧の中へ連れ込むことを思いついたのか。何故迷わず森の中を歩くことが出来たのかが、ミナトにとっては長い間疑問だった。穂波が特殊な存在だったと分かれば辻褄が合う。

「その場所はなんていうか、居れば居るほど頭がぼーっとして、昔のことも忘れていっちゃう。感覚も鈍くなっていく。きっとミナトの中の嫌なものも消えてくれる。殆どの人が怠惰で眠ってばかりだから、キミを傷つけるやつもいない。いても僕が追い払う。僕はある約束を守らないとそこへ帰れないんだけど、良かったら……、その時にキミも一緒に来ない?」

 突然の話にミナトは戸惑っていた。

 催眠能力が使えるのは一度に一人に対してだけだ。ハルカとは繋がった状態でなければ霧の奥へ行けないと思われるため、ミナトには自分の意思で穂波について来てもらうしかない。

 ハルカが既に死亡していた場合は空きがあるが、やはり穂波はミナトに対して力を使いたくない。

「ごめん、嫌なこと以外も消えていっちゃうと思う。怖いよね。すぐに決めなくていいんだけど……」

「……穂波は、どうして私を助けようとしてくれるんですか?」

「確かに。何でだろう。多分あいつのことが許せなかったし、今でも許せないんだよ。まだキミを傷つけてるだろ」

 濁った青い霧は立織の命を削り取った。けれど毒の煙と一体となった立織が、いつまでもあの森に居座り続けてしまった。

「本当は、病院にも行って欲しいけど……。キミはきっと、現実という特効薬が要るんだ。毒じゃなく、薬になる澄んだ現実が、キミにはあった方がいいと僕は思ったんだ。……そして僕には、その心当たりがあった」

 ミナトは静かに涙を流していた。

「そう……。私なんかのために、そんなことを……。本当に神様みたいだ……」

 そう言って、ミナトは傍にあった穂波の手を両手で包み込む。

「私で良ければ連れて行ってください。あの青い霧の向こうへ。あなたが帰る場所へ……」

「うん。あの、もし気が変わったら、いつでも言ってね……?」

 穂波は、自分が課された依頼の条件も話した。

 ミナトの親はグラスの職員だった。もしかしたらどこかの人脈を使ってハルカという子供の行方を探れるかもしれない、と密かに穂波は期待した。

「ツテはありませんが、だったら、私があなたのボディーガードになります」

 穂波の肉体は本来の時間の流れであれば今年で十二歳になっているはずで、グラスにおける登録では現にそうなっている。体調が万全ならそろそろ支部へ出入りしたり、仕事の見学を許される頃だった。

 穂波の次のボディーガードは近々現れることになっていたが、立織が見つかるまでの臨時という扱いである。

 もしこれからミナトがボディーガードを目指すと仮定すると、穂波がアンカーとして働き始める数年後にちょうど職場で再会できるかもしれない。ガードの担当者を変えることも、アンカー側から希望があれば汲んでもらえる可能性がある。

 時間は掛かるが、秘密を分かち合った二人で行動できればお互いに安心だ。二人で協力して集落に続く道を拓くことにした。

「私、これでも学校では真面目で、成績は良いんです。すぐに迎えに行きますよ、穂波」

 ミナトが微笑むのを、穂波は久しぶりに見た気がする。

「ありがとう、ミナト。必ずキミを僕のいた場所へ連れて行ってあげる」


 その後、穂波の退院日が決まった。

 薬は飲み続けているが、体調はかなり良くなっている。入院した当初とは比べ物にならない。

 今後は日常生活を送りつつ、定期的に病院へ来て経過を診てもらうことになった。

 退院へ向けて、穂波はグラスに対して連絡をとった。都市の中のどこかに部屋を借り、そこで今後の生活をしたいと希望したのだ。

 退院してしばらくは集団生活に不安があり、養護施設には行きづらいと付け加えると、要求は通った。

 ミナトは未だに立織の生活の跡が残る自宅で、私物も処分できないまま生活している。穂波は、あの家を建前として残しつつ、これから借りる部屋をミナトの帰る場所にも出来たらいいと考えていた。ミナトもその話を聞き、快諾した。

 穂波は病室の外へ出て、院内を自発的に歩き回れるようになっていた。その日も病室に会いに来てくれたミナトをロビーまで見送りに行く。

 自分の病室へ戻る穂波は、長い通路をいつも通り歩いていた。

 その交差点で、後ろに子供を連れた看護師とすれ違う。

 何気ないやり取りが穂波の耳を掠めていった。

「ハルカさん、あちらのカウンセリングルームに」

「はい」

 はっとして穂波は交差点まで戻り、その声が流れていった方向を見た。

 白い髪の子供の後ろ姿が、案内された個室に消えていくのが見えた。

「今の……」

 白い頭髪に、ハルカという名――。

 顔を確認することは出来なかったが、穂波が捜すように言われた子供の特徴と重なっていた。

 身長からすると十代前半くらいだろうか。穂波の知るハルカと同一人物であれば、年齢は合っていそうだった。

 ここは数十万もの人間が暮らしている都市に置かれた病院だ。偶然同じ特徴を持つ子供が現れても不思議ではないだろう。

 だが、穂波はその子供の入った個室の扉から目が離せなくなっていた。

 対象と同一人物であると特定し得る、ある決定的なものを感じ取っていたからだ。

「あれは……」

 マーキングされた声だった。

 短い言葉だったが、穂波はあのハルカが発した声の特徴を聴き分けた。

 深層心理にはたらきかけ、自身の発声方法にほんの僅かなクセをつけさせる。対象に行わせることは本当に些細なことだが、その催眠は自覚できない心の奥深くに根付き、放っておいても長く続く。

 あれは最終的に対象と強く繋がる催眠をかけるための相性の確認、下準備として仕込むことがあるものだ。穂波は集落で誰かから教わったことがあるので、恐らくあの場所に伝わる独自の手法であったはずだ。

 集落へ連れて行く相手に対して、これを行っておきたい能力者は多いだろう。濁った霧の中では表情や仕草で相手の様子を確認することが難しいため、声で判別出来るようにしている。また、もし自分が催眠をかけた覚えのない相手の声に印がついていた場合は、その相手には手を出さないという暗黙の了解もある。

 その発生方法のクセは、毎日顔を合わせる人間が聞いても気付かないような非常に微細なものである。催眠をかける側、それもこの手法を知っている者でないと、この特徴的な響きを瞬時に聴き分けることは出来ない。

 飾水はハルカという子供と一度は繋がり、強制力を以って霧の中へ進んだ。

 それが事実であれば、対象の子供の声には飾水がつけたマーキングがあってもおかしくはなかった。

 外見、名前、声。これらの特徴が重なることが偶然だとは、穂波には思えない。

 穂波はハルカが個室から出てくるまで通路の陰で待ち、その顔を盗み見る。

 ハルカの瞳は花で染めたような深い紅色をしていた。表情は硬く、どこか陰を感じさせる。ドアの隙間から見える職員に会釈をしてロビーへ向かって去っていくので、穂波はこっそりと後を追った。

 ハルカの歩き方はどこかきびきびとしており、元気があるのか無いのか分からない。

 穂波は声を掛けるべきか迷った。

 飾水の名前を出せばすぐに本人であるかどうか判別できる。けれど、飾水はこちらの社会では行方不明となっているのだ。相手を警戒させてしまっては繋がることが難しくなる。

 ハルカは自分の手で飾水との繋がりを切ったことがある。それは穂波との繋がりが拒絶される可能性も大いにあるということだ。そして一度失敗しまうと、二度目を考えることは現実的ではなくなる。焦っては駄目だ。

 ハルカは病院を後にして、最寄りのバス停へ向かったのかそのまま歩き去ってしまった。穂波は病院の外まで追うことができない。歯がゆさを感じつつも病室に戻る。

「とにかく、ハルカは生きていた。それが分かった。そして、生きていたからには――」

 生きていたからには、連れて行かなければいけない。

 能力を使って繋がり、あの霧の奥の集落まで。ミナトを連れて一緒に。


 後に調べて分かったことだが、本来穂波が送られる予定だった児童養護施設にこそ手掛かりがあった。

 そこは、グラスの関わった救助活動等において保護されることになった行き場のない子供たちの居場所になっている。ハルカがこれまで生活をしていた場所はまさにそこだった。

 あの時穂波が身体の変化を受けて狂ってしまわなければ、支部のデータベースを探し回らずとも養護施設でハルカに接触出来たかもしれないのだ。最初から生存している可能性を高く見積もっていれば良かった。はっきり言ってツイていない。

 ハルカは飾水とはぐれ、救助されて以降、穂波のいる病院で定期的にカウンセリングを受けるよう言われていたらしい。霧の中で親しい相手を失った人間は、知らず知らずのうちに精神を病んでしまいやすいからだ。

 病室に籠りがちだった穂波がこのことに気付けるはずがない。ハルカが生きているかどうかすらはっきりとしていなかったのだ。七年間入院生活を送ってきて、今日ようやくハルカの生存を確認することが出来た。

 ハルカはダイバー候補生として養護施設を出て支部内の寮に入った後だったため、仮に穂波が今から養護施設に入ってもハルカとは入れ違いになってしまう。

 あの時病院でハルカの存在を確認出来たことは運が良かった。ある意味最後のチャンスだったかもしれない。

 自身の不運さに穂波は項垂れたが、まだ希望は残されていた。

 いや、寧ろここからがずっとチャンスだ。

 ハルカが自分からダイバーを目指していることなど奇跡と言ってもいい。順調に時が進めばハルカと穂波は仕事を共にすることになる。仕事をしていく上で自然に力を使って繋がる機会を得られる。

 何度か繋がることで様子を見て、集落のある方向の場所へ出動した際に周囲の隙を突き、強制力でハルカを拘束する。そして霧の奥へ連れ込む。ボディーガードのミナトと一緒に。

 聞くところによると、ハルカがダイバーを目指しているのは自分の親を捜すためだと言っているらしいではないか。ハルカは当時の状況をよく覚えていないのかもしれないが、これなら強制力など使わなくても、事情を話せばついて来てくれるかもしれない。それなら繋がりを切られることもない。あらゆるリスクが低く、明るいビジョンが穂波の脳内に踊った。

 無事に病院を退院した穂波は、病院から都市の中心部を挟んで反対側に位置するアパートの一室に引っ越した。立織を殺す舞台となった森や病院が生活圏から見えるのは出来るだけ避けたかったので、少しわがままを言って部屋を探してもらった。

 七年も入院生活を送っていた穂波がいきなり職場を覗きに行けるわけはなく、しばらくは自宅療養に勤め、新しい生活に慣れるために大人しくしていることとなった。

 臨時のボディーガードがよく様子を見に来るので、家事を手伝ってもらったり、職場での業務内容や、グラスがどの程度青い霧について迫っているのか探りを入れたりして相手をした。今度のボディーガードも、表面上は悪い人間では無さそうだった。穂波はミナトと共に行動できる日が待ち遠しい。

 ミナトは自宅から支部に通い、訓練を受け、一日でも早く穂波のボディーガードになるために日々邁進していた。本人は複雑なようだが、行方不明の親と同じ職を目指す姿を周囲も応援しているらしい。

 ミナトは休日に穂波の部屋に遊びに来て、お茶を楽しんだり、買い物に出掛けたりもした。

 二人きりの時はミナトの緊張の糸がぷっつりと切れて、見ていられない程に弱ってしまうため、穂波はそれを受け止めてあげていた。

 実は、穂波はボディーガードが不在の日に一人でこっそりと例の森まで行き、立織の死体を確認しに行ったことがある。

 だが、記憶したルートから逸れた場所に置き去りにした上、どうやら立織は目覚めた後に多少動き回ったらしく、見つけることが出来なかった。自分が剥ぎ取ったレインコートと思わしき物の影だけは見つけられたが、立織本体は転がっていない。

 霧が立織の肉も骨も何もかもを、このまま隠してくれれば良いのだが。


 退院から一年半程経ち、ようやく穂波はグラスの支部への出入りが出来るようになる。

 ただし、まだ正式に働くわけではない穂波が出入りできる空間は限られていた。最初に支部に潜り込んで一ヶ月の頃と行動範囲はあまり変わらない。

 救助活動に関わる部門は、日頃からダイバーが訓練をしたり、アンカーやオペレーターたちが研究班との情報交換などをしているわけだが、大きな仕事があるのは救助を求める通報があった時である。

 ダイバーやアンカーは当番制になっており、それに該当する者は支部内にて待機が基本。通報が同時期に重なれば非番の者も招集され得る。

 この支部は都市一帯からの通報に対応するが、その周辺地域には支部が設置されていない町や村もあるため、数日掛かりで応援に向かうこともある。霧の中に入る者など滅多にいないとはいうが、都市中からの連絡がこの支部へ集うとなると、出動頻度はそれなりにある。

 被救助者が見つからなければ捜索は数日に渡って繰り返されるため、何も無い平穏な日の方が少ないかもしれない。

 実は霧の集落からこっちへ行き来している者もその行方不明者とやらに混じっているのではないか、と穂波は内心訝しむ。大昔の記録を探ればもしかしたら自分の情報も出てくるのかもしれないが、年代がはっきりしない上に、見たところで何かが変わるわけでもないだろうと思った。

 穂波は、自分がいつからアンカーとして働けそうか周囲の職員に尋ねた。

 穂波は登録上の年齢よりもかなり幼く見え――実際に体は幼いのだが――、正式に採用されるのはかなり先になるのではないかとの声が多かった。

 どうも周囲から見て、穂波の幼い容姿はダイバーの命を預けるには不安を感じさせるらしかった。アンカーとダイバーはお互いに担当を決めている訳ではなく、その日の当番や状況で組み合わせられる。穂波という人物を理解すれば多少は信用が置けるかもしれないが、初対面同然であれば抵抗感がある。

 こちらに降りて来てすぐの頃は自分の身体の変化にあれほど嫌悪していたのに、今の穂波は早く大きくなりたくて仕方がない。皮肉なものだった。

 加えて、直接言及されることは無かったが、穂波が精神を病んで入院していたことも重く見られていた。

 アンカーはダイバーの命綱であるため、常に冷静に努めていなければならない。精神的に不安定になりやすいアンカーは、素質があろうと現場では起用しづらい。十分に観察期間を設けたいというのが、恐らくグラス側の本音であった。


 それから一年近く、支部の中を歩き回ったり、職員に話の相手をしてもらったりして職場を観察した。ボディーガードがついているので不審に思われそうな行動が出来ない。ダイバーの候補生たちが活動する建物に何度か足を運んだことはあるが、ハルカと接触することは出来ず、通路で一瞬すれ違うのが限界であった。

 ある日、退屈した穂波が支部内のアンカー待機室を訪れると、巣文(すぶみ)という若いアンカーがソファに腰かけて読書をしていた。傍らには二十代後半のボディーガードがいる。

 待機室は二人掛けのソファが四つ、テーブルを挟んで置かれているだけの寂しい部屋だ。観葉植物やちょっとした本棚も置かれているが、背景と一体化している。

「ここでちゃんと待機してるの、キミくらいしか見たことない」

 穂波が支部内を見学して回る中で、最も出会う機会が多かったのがこの巣文という人間だった。

 元々この支部に所属するアンカーは数える程しかいないが、その多くは食堂やカフェテリア、資料室など思い思いの場所で待機時間を消化しており、この待機室は形骸的なものになっている。ここで文字通り待機に勤めているのは、穂波が見てきた限りでは巣文くらいなものだ。

 しかも巣文は非番の日も何故かよく支部内に姿を現しているようであり、非番招集に真っ先に駆け付けたことが何度もあるらしい。本人曰く、アンカーとしての過ごし方しか知らないとか。

「お前もここに来ているじゃないか」

「暇なんだもん」

 妙な生真面目さを持つ巣文は、支部内の情報をよく知っていた。世間話のつもりでたまに面白い話を教えてくれることがあるので、それを目当てに穂波は待機室を覗きに行く。

 穂波は巣文の向かいのソファに座った。穂波のボディーガードは後方の壁に沿って立ち、アンカーたちを見守る。

 ふと巣文が目を通しているものをよく見てみると、やけに分厚い。

「読書で辞書読んでる人、初めて見た」

「そうか? だが待機時間にはうってつけだぞ」

 今にも指に溶けてしまいそうな薄いページをはらりとめくり、巣文は事もなげに答えた。

 最初のページから読んでいるとしたら、まだ一割にも届いて無さそうに見える。

「そういえばお前は、正式採用後の名前は何か決めているのか」

「え? 無いよそういうのは。僕はずっとこの名前だから」

「そうか。そういう場合も少なくはないな」

 穂波という名は、あの集落で暮らし始めた以降に名乗った。確か、そうだったはずだと穂波は記憶を漁る。そう名乗る前の名前――大昔にこの霧の外で暮らしていた頃の名前は、忘れてしまった。

 はらり、と軽い音が部屋に響く。

「先日、春から加入する新規職員の発表が内々に行われた。これを機に改名をする者がその中にいる。合格祝いというわけではないが、ここの職員で名前の案を持ち寄って贈ろうという話が上から来てな。どうも本人は、そういったことを考えるのが得意ではないらしい」

「それ、そんなに気合い入れて考えろって意味では言われてないと思うよ」

「だが、名前は一生ものになるかもしれない。暇ならお前も何か考えてみないか」

「いいよ僕は別に」

 その後、巣文は招集がかかって待機室を出て行った。

 穂波は興味なく流してしまったが、後にハルカがダイバーの本試験に合格し、雪路という名に変わったことを知る。あの時巣文が考えていたのは、恐らくハルカの名前の候補だったのだろう。


 その年の秋になると、待ち望んでいたことが遂にやって来た。ミナトが穂波の正式なボディーガードになったのだ。

 担当者の交代希望は案外すんなりと受け入れられた。ミナトの懸命な努力によって勝ち取られたものであり、立織の居なくなった場所を立織の子供が埋めるという図式は、端から見て一定の理屈が通っているように感じられたこともある。

 穂波は未だ正式採用には至っていないので、担当者が新米であっても大丈夫だろうという認識もそこに関わっていただろう。

 穂波が支度を済ませて自宅を出ると、すぐそこにミナトが立って待っていた。

「お迎えに上がりました。穂波」

 ミナトはそれ以降、尾研(おとぎ)と名乗るようになった。かつて穂波に語った胸中を思い出させる、絶望の情景をその名前に刻んだのであった。

 尾研のエスコートで車に乗り込み、グラスの支部へ向かう。

 穂波と尾研が合流することができた。あとは穂波が正式なアンカーになり、雪路と接触できる機会を待てばいい。

 穂波の肉体の加齢を待ちながら、二人は支部に出入りする日々を繰り返す。

 尾研と共に行動できる日々が心地よく、穂波は心の片隅でこの時間を手放すことが惜しく感じていた。集落に戻ってしまえば、きっと今感じているこの気持ちも、愛おしさも、霧に溶け出て無くなってしまう。

 焦ることは無い。ここで過ごせる時間を大切にしながら、ただその時が来るのを待つ。

 

 そう考えていた矢先に、あの事件が起こった。

 雪路が救助活動中にアンカーとの繋がりを絶ち、その責任を負われてグラスでの契約を解消させられてしまったのである。

 飾水がハルカとの繋がりを切られたと語っていたのは本当のことだったのだ。ハルカ――雪路は、アンカーの力に抵抗し、自力で催眠を打ち破って見せた。一度にとどまらず、二度も。

 本来、催眠の掛かりやすさには相性と個人差がある。自分は催眠に掛からない、信じない、と初めから思っている者に対してはロープが掛けづらい。だが、雪路には最初問題なくロープが掛かるのに、途中で向こうから著しい拒絶を示すということだ。どう対処しろというのだ。

 雪路は、被救助者の救助を優先したいあまりに限界地点を越えようとした。アンカー側がきっちりとロープを握っていても、雪路には綱引きで引き勝つ程の感情の波が起こる。これでは穂波が繋がったとしても二の舞になってしまうかもしれない。

 しかも、組んでいた相手はあの巣文である。

 前代未聞の事例、そして表面上でいくら繕っても誤魔化せない心の奥底から叩きつけられた拒絶反応だった為、生真面目な巣文には相当こたえたようだ。

 飾水も少なからずショックを受けていたようだが、澄んだ霧で感覚が鈍化しつつある人間とでは比較にならない。

 穂波は雪路の当時の様子が気になり、待機室で項垂れている巣文の下を一度訪れた。

「私があの時、周りの制止を振り払って、紐でも何でも括って霧の中へ飛び出せば良かった。私が共に行けば雪路はどこまでも先へ進めた……。あいつは自分の親を捜すためにダイバーになったんだ。あの若さで、試験をストレートに通った。こんなことで道半ばになっていいわけがない。私がそうさせてはいけなかった――」 

 雪路がグラスを去ったことで、それまで円満な計画を思い描いていた穂波と尾研は振り出しに戻されてしまう。

 尾研はダイバーたち全員に対して、いつか立織の死体を見つけ出してしまう人間だという恐怖と敵対心がくすぶっていた。特に雪路に対してはそれだけではなく、集団の一員として、その場の感情で自己犠牲をはたらいたことに強い忌避の感覚を覚えた。

 計画を水の泡にさせられたことで反発的な感情も湧く。アンカーの能力を跳ね除け得るという事実も計画に差し障りがあり、穂波に負担が掛かると思うと余計に許せなかった。

 一方の穂波は来年からようやく正式なアンカーとして採用されることになっていた。身長の伸びが落ち着いたことで年齢の目安がつけられなくなったが、外見は十五歳くらいというところか。

 それにしても、どうも穂波と雪路はすれ違い続ける運命にあるらしい。

 飾水に会ったら、自分を選ぶとは見る目がなかったと伝えておこう。そんなことを穂波は思う。

 雪路は故郷の町へ帰ったと聞く。都市の支部に留まる理由はもうないかと思われたが、まだ可能性が残されていた。

 霧の奥地から自力で生還した雪路の手には、ある土産が握られていたのだ。

 持ち帰った音波装置の解析結果と本人の報告書から、雪路が捜索したルートの遥か先に未解析の土地が広がっており、スポットの可能性が高いという仮説が立てられた。

 説も何も、穂波は答えを知っている。その先を更に根気強く進んで山の頂を目指せば、そこには穂波の暮らしていた集落がある。

 グラスが雪路の通ったルートを足掛かりに霧の奥地への調査を計画していると、それを知った周囲の企業や団体が食いついてきた。どれも未踏の土地にある手付かずの資源を欲していた。

 そして、霧の中に中継地を作っていく大規模な計画が立てられた。まだ誰も手をつけてこなかった挑戦である。この時点ではまだ試験的に実施することとし、現場に赴くのは五年後を目標に準備を進める。

 新設されたプロジェクトチームに、新米の穂波は名乗りを上げた。

 穂波は実績こそなかったが、能力が高いことは事前のテストでも証明されており、誰が相手でも繋がっていられる距離が安定していた。救助目的のない探索となるため緊急性がない現場でもあり、スポンサーからのプレッシャーこそあるが初心者である穂波が従事することは寧ろ向いている。

 適性だけではなく明確な目的もある。計画が進んだ先にあの集落が暴かれる可能性があり、阻止しなければならなかった。そしてそれだけではない。この計画は大掛かり故に人手が足りなかった。ここにどうにか理由をつけて雪路を呼び戻すことが出来れば、中継地で安全に距離を稼ぎながら集落に向かうことも出来る。

 尾研は雪路をダイバーとして再び連れ戻すことに乗り気ではなかった。しかし別のアプローチをするにしても、もっともらしい理由が必要だ。雪路に抵抗されればこちらが危ういのだから。

 穂波は巣文の言葉を思い出していた。雪路は飾水を捜すためにダイバーになった。例の一件は雪路にとっても不服で、未練があるはずだ。雪路の中に飾水と会いたい気持ちがまだあるなら、そこに波を起こしてやればいい。自分から霧の中へ向かうようにあおってやればいい。

 納得いかない様子の尾研を宥めつつ、穂波は言った。

 まだ風はこちらに吹いている、と。

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