風が入らないはずの店内で、壁掛けのモビールがゆっくりと回っている。
午後の店番をしていた遼遠はカウンターに立ちながら、その吊り下がった飾りの不明瞭な振る舞いに目を奪われていた。薄い木の葉をかたどった板の数々が糸で吊るされ、吊り合ったシーソーのように絶妙なバランスで宙に浮かんでいる。それが店内の僅かな空気の流れを拾うのか、飾りの自重によるものなのかは分からないが、時折揺れているのだった。
店に用のある人間は、今はいない。外は薄暗く、朝から弱い雨が降り続いていた。
遼遠が眺めているモビールは、最近店に飾るようになったものだ。よく出来ているが売り物ではない。工房で出た端材を使って雪路が手作りしたものだった。
雪路が桔梗家具店に身を置くようになってから、この春で六年目になる。
雪路の育て親である飾水(かざみ)は、草花のオブジェを作ることを得意とした作家だった。しかし飾水は雪路が幼い頃に青い霧の中で生き別れとなってしまい、今も行方が分かっていない。
雪路は自分の手で飾水の行方を捜そうとしたが、ある独断の行動を取ったために所属した機関から契約を解かれ、居場所を失って故郷のこの町に戻って来た。今は自分から捜しに行くことを諦めて、飾水の情報がどこかで見つかるのを待つことにしている。その代わりに、この店に身を置きつつ飾水の仕事を引き継ぐことが出来ないか模索していたのだった。
昨年の暮れ辺りから端材を切ったり削ったりしている雪路の姿を見かけるようになったものの、作品を仕上げ切る程の成果は上がらなかったことを遼遠は記憶している。
しかし雪路はある時急に「そうか、脚動かすのと同じか」と何かに気付いたようで、意味を持たない木片を作り出すのをやめ、木材から正円や球に近いものをいくつか削り出すようになった。
恐らく、前職で培った感覚が応用出来ると思ったのだろう。
雪路はグラスという研究機関に所属し、青い霧の中へ潜って行方不明者を捜す仕事をしていた。
視界から得られる情報が恐ろしく少ない霧の中は、徹底的に制御された歩幅や方向感覚、記憶力、心身の強さがなければ活動できない現場である。特に歩幅を一定に保つ能力は今でも雪路の癖として残っており、自身の身体動作を完全に意のままにするかのような類い稀な技術だった。
脚を思い通りに動かすことが出来るのだから、腕や指先も同様に考えればいい。雪路はそう気づいた。
突然コツを掴んで作業に没頭しだす雪路に遼遠は感心していたが、雪路の過去の陰の部分を垣間見てしまったようで、物悲しく捉えてもいた。
飾水と生き別れる事件がなければ、その人間離れした技術を身に着ける為の途方も無い苦労も、自分で青春を蔑ろにすることも無かったはずなのに。
遼遠の内心を知る由もない雪路は、手の動かし方をある程度掴んだ後、徐々にモビール作りを始めた。店の周りで拾った落ち葉を手本に、吊り下げる飾りを作ると言う。
就寝前の時間や店の定休日を使って自室で黙々と作業をする雪路の様子を、遼遠はしばしば眺めに行った。飾りの部分を作っていた頃はただ黙って見ているだけだったが、実際に糸を通してバランスを探る段階になるとそうはいかなかった。二人でああでもないこうでもないと話し込み、一緒に作業に取り組んでいた。
出来上がったモビールは――遼遠の贔屓目も含まれているが――初めてにしてはよく出来ていた。全体に木彫の温かみもあり、葉の有機的な曲線も拾えている。宙吊りになった飾りのそれぞれが控えめに回る様子は、いつまでも眺めていられそうだった。
親方の反応も好感触で、「いいんじゃないか」と、店のカウンターの傍に掛けることを提案してくれた。商品である家具と同じ素材で作られたものだったので、店の風景によく馴染んだ。
そういった思い入れもあるので、遼遠は店番の合間にモビールを視界の端に捉えるのが癖になっている。
すると唐突に店の入り口のドアが開く音がし、モビールが外から流れ込んだ風を受けてくるくると回りだした。来客だ。
遼遠は入って来た客に目を向けて唖然とする。
「……いらっしゃいませ」
「こんにちはー」
その客とは、なんと穂波(ほなみ)だった。
穂波は、雪路が以前所属していた機関の人間で、前回は雪路に職場へ復帰するよう勧誘をしに突如現れた。遼遠にとっての要注意人物である。ここへやって来るのは今回が二度目だ。
穂波は若く、華奢で、見た目も言動も幼さが残っているのだが、どこか得体の知れない雰囲気があった。
早速穂波は、白々しい態度で初対面を演じる。
「実は前に来たことがあるんだけど、その時の店員さんって今日はいる?」
「椅子の相談?」
遼遠はぴしゃりと返した。
穂波は大きな瞳を見開いて、二度瞬きした。
「あれ、覚えてる?」
狭い田舎に置かれた店なのだ。自然と客の顔は覚える。
そうでなくても、穂波のことを遼遠が忘れるはずがない。
「雪路から、来ても相手にするなって言われてます」
「あー……。そう。そうなんだ」
穂波は脱力し、ふらふらと商品のテーブルの間を歩き始めた。
「とはいえここに来るのも大変だったからさ、はいそうですかって帰るのはちょっと嫌なんだよね。キミでいいから少し話し相手になってくれない? えーと、りょーえんだったっけ」
遼遠は耳を疑った。
先月の上旬、穂波が店にやって来て雪路にグラスへの復帰を提案した。偶然居合わせてしまった遼遠は、耐えられずそこへ割って入る。その時遼遠が立ち聞きしているとは思っていなかった雪路は、咄嗟にその名前を口にしていた。穂波は、そのさり気ない発言を記憶していたのだった。
遼遠は、この大切な名前を呼んでくれる次の人はきっと親方になるだろうと思っていた。この淡い期待がむざむざと打ち砕かれ、揶揄いのニュアンスをもって口にされるとは。
胃の中に氷を詰め込まれたような心地がする。
せり上がってくる感情を喉の奥に押し込めて、遼遠は静かに訂正する。
「俺の名前はアンリです」
遼遠の反応に、穂波はいつぞやに聞いたような口調で返す。
「ああ、ごめんなさい。アンリだよね。調べてもそうとしか出てこなかったもん」
遼遠はまだ改名の手続きを行っていない。遼遠という次の名前を知っているのは今のところ雪路だけだ。世間的にも管理上においても、遼遠の名前はアンリのままだった。
「あなたと話はしません。冷やかしならお引き取り願います」
「冷たいなあ」
「そう思っていただいて結構です。あなた以外の機関の人が来ても同じだ。雪路を連れて行くつもりならどんな形だろうとお断りします」
はっきりと拒絶された穂波であったが、すぐに店を出ていく様子はない。
遼遠はカウンターを回って、穂波の方へ近づいた。
「俺はあなたたちの見ている世界なんて分からない。俺は大きな街も見ず、ずっとこの小さな町で生きてきた。広い世界は遠くに望むだけだ。あなたたち機関のお陰で霧に脅かされない生活があるとしても、俺がその有難みを真に知る時なんてないでしょう。だから、すぐ傍の世界しか見えない俺にとっては、あなたたち機関のことは雪路を苦しめた存在としか思えない」
遼遠の語りに、穂波は怪訝そうに眉をひそめた。
「グラスが雪路を苦しめた?」
穂波はグラスの人間とはいえ、責任者でも何でもない。穂波に怒りをぶつけたところで意味がないのは遼遠も分かっている。けれど、一度口に出してしまうと気持ちが収まらない。
遼遠はもう、雪路と繋がり続けることを選んだ。雪路の苦しみの一部に触れてしまった。
胸中を打ち明け始めると精神が昂って、坂から転がり落ちるボールのように遼遠の口調が足早になっていく。
「俺だってこれまでずっと傍にいてやれなかったんだから、あなたたちに何か言う資格ないのかもしれない。でも機関の人たちは雪路の……ハルカのことをずっと見ていたんでしょう。親と会えなくて苦しむハルカのことも。仕事のために時間も方向も歩幅も、起きてる間ずっと気にして心が休まらない雪路のことも、知ってたはずだ。何で誰も止めてくれなかったんですか。あいつがそう望んだから? 冗談でしょう。望んだことだから本人がどうなろうと知らないって言うんですか? ……機関が道を与えてしまった。道があることを教えてしまった。雪路が知らなくてもいい道を……」
十八年前の事件の後、飾水を捜す手段が自分には無いとあの時幼い雪路が捉えていれば、どうしていたのだろうか。
大人しくこの町に戻って来たのかもしれない。そのまま都市の養護施設で育つことになったのかもしれない。飾水のいない喪失感の置き場が見つからなくても、機関で危険な仕事をするよりは穏やかに生きていけたのではないか。遼遠はそう思わずにはいられない。
あの時大きな分岐点に立たされた雪路のことを、遼遠は時折考えていた。絶対に届くことのない過去の時間に手を差し入れて、少しでも平穏な道へあの時の雪路の手を引いてやりたかった。そんなエゴを含んだ空想をしてしまうことが、時にあった。
穂波は、遼遠が突如噴出させた感情にどう対応したらいいか戸惑っているようだった。しんと静まった店の中に佇み、言葉を探している。
「申し訳ないけど、そういった極めて個人的な事情まではグラスでカバーしきれない。その素質が認められればグラスは来るものを拒まないし、本人が語らないのなら抱えている事情を暴かない。大勢の人が関わっている組織だから対応は平均化されるし、個々へ配慮出来たとしても心の痛みは相対化できない。霧の影響で心身に悪影響が現れないかどうかは、こちらも全職員に対して常に気を遣っていることではあるけどね」
うーん、と穂波は腕を組んで思案する。
「僕が知っている限りでは、雪路が都市にいる頃は定期的にカウンセリングを受けていたみたいだよ。仕事に打ち込むようになってからは、通えていたのか分からないけど」
それは遼遠の知らなかった情報だった。雪路が何かしらの支援と繋がっていたことへの安堵と、それ程に深刻なものだったのだろうかというショックにどう反応したらいいのかわからない。
穂波はどこか遠くを見るようにして言った。
「でもどれだけ治療や薬が効いても、現実というのは劇薬なんだ。理屈を凌駕して、精神を大きく揺さぶる力がある。親と生き別れたという現実の毒が強ければ、完治が難しいことだってあるかもしれない」
再び店内を歩き出し、春のそよ風のように優美な手振りをしながら遼遠に語りかける。
「でも悪い事ばかりじゃない。その人にとって良い現実であれば精神にも良く作用する。本人が実感した真実は多少の理屈では突き崩れず、心を助けてくれる。僕は、雪路がダイバーとして復帰出来ることは薬になると思っている」
フロアを歩き回る穂波を、遼遠は冷えた視線で追う。
「それはあなたたちにとっては薬でしょう。雪路にとっては毒にしかならない」
「手厳しいね。でも、最終的には本人が直面してみなければ、どちらに転ぶか分からない。僕らは医者じゃないから」
穂波は店内をぐるりと巡って、出入り口の前に戻って来た。
遼遠の目を真っ直ぐに捉えて、穂波はこう告げる。
「雪路に伝えておいて。飾水に会えるかもしれないって」
「な……」
なんてことを言うんだ。遼遠は呆然とした。冗談にも限度というものがある。
「嘘じゃないよ。これは僕だけが知ってることなんだ。だから、言うのは雪路だけにしてね」
「信じない。どうしてそれを俺に教える必要が――」
「僕が言うよりキミの声で伝えた方が響くだろ」
「仮に真に受けたとしても、言う訳がない」
そんなことを伝えてしまったら、また無闇に雪路の心をかき乱してしまうだけだ。雪路はここに縛られることを選んだ。遼遠は雪路をここに縛ることを選んだ。もう二人にとっては済んだ話だ。また蒸し返すなんてことはしない。
「いいや、いつか言うよ。キミはこの秘密を一人で抱えていられなくなる」
成程、そういうことか。遼遠は納得した。穂波は呪いをかけにきたようなものだった。
確かに、雪路に対して後ろめたい思いを感じ続けるのは遼遠にとって苦痛だ。隠し事もなるべくならしたくない。
現に遼遠は、自分の新しい名前が雪路を悩ませると自覚しつつも、伝えたい気持ちを無くすことが出来なかった。穂波の言う通り、自分では抱えきれなくなってしまう瞬間が来てしまうかもしれない。
けれど、例えそうであったとしても、だ。
「仮に伝えてしまったとしても、あいつの気持ちは変わらない」
実際の雪路の気持ちがどうであるかは分からない。これは遼遠の願望だった。
「そっか」
穂波はドアを開け、店から出る。
「雪路は、キミと繋がっているんだね」
ドアが閉まる直前そう呟くのが聞こえて、傘を開く音共に客は颯爽と歩き去って行った。
どっと疲労感を覚えた遼遠は、カウンターに戻りつつ壁掛けのモビールに目をやる。それはやはりドアからの風を拾ってゆったりと回っていた。
その夜。
遼遠が入浴を済ませて居間に戻ると親方だけがおり、入浴の順番を待っているはずの雪路の姿が見えなかった。
「あれ、雪路は?」
「工房」
また端材で何か作品を作り始めたのだろうか。遼遠は雪路を呼びに一人で工房へ向かう。
工房の灯りの一部が点いており、その下に雪路が背を向けてしゃがんでいた。シートの上に木製のパーツが並んでいるのをじっと眺めている。
遼遠が遠目に覗き込むと、そのパーツはモビールやちょっとした彫刻を作るような大きさではなかった。というより、それは明らかに組み立て前の家具であった。作品作りではなく普段の仕事の用で来ていたのか。
雪路の隣までやって来て、並んだパーツを共に眺める。その数と形から、これが椅子であることが分かった。
遼遠は邪魔をしないよう何も訊かずに見ていたのだが、雪路が唐突にこれの正体を告げる。
「……お前の椅子」
「えっ。お、俺? 何で?」
予想していなかった言葉に不意を突かれ、遼遠は声が裏返る。
雪路はパーツに視線を向けたまま、変わらぬトーンで答えた。
「お前が来た時いつも椅子ないから」
確かに、遼遠が雪路の部屋に行ったときはいつも座る場所が無かった。店の二階からその都度スツールを拝借して使うか、長居するつもりがなければ立ち話で済ませる。
しかし、そもそも雪路の部屋に家具が全然無いのだ。建てられた時から部屋に備わっている小さな収納と手洗い場、そしてここに来たときに置いたベッド。以上が雪路の部屋にある主な物である。
雪路は元々私物が少なく、仕事に使う道具類は工房に置いておけば良い。部屋自体が手狭なので家具を置こうという気にならないのかもしれないが、自分用の机や椅子すら置かれていない。
「普通、自分の分から作るんじゃないのか?」
「俺は窓のところかベッドに座るからいいし」
「いや、よくないだろ……」
遼遠もしゃがみこんで、材質を確認する。
「俺も同じようにお前の分作ろうかな。お前の部屋と、俺の部屋に」
遼遠にとって、この流れでは自然な発想だと思ったのだが、雪路にとっては想定外なようだった。
「……自分が作るのは良いけど、作られると思うとものすごい気分になるな」
「俺の気持ちがわかったか、雪路。俺は今にも泣いてしまいそうなくらい嬉しいんだからな」
そう言いつつ、遼遠の目には本当に涙が浮かんできていた。
雪路が自分の部屋に遼遠の居場所を作ろうとしてくれている。これからも部屋に遊びに来ていいのだと暗に言ってくれている。それがどれだけ嬉しいことなのか。遼遠は胸がいっぱいになっていた。
「親方に設計図見てもらった甲斐があるな」
遼遠の反応を見て雪路が満足気に笑みを浮かべたが、その言葉を聞いて遼遠の顔色が変わった。
「み、見せたのか、親方に!」
「そりゃちゃんとしたもの作りたいから見せるだろ。相当直されたから殆ど親方作みたいなものだぞ。お前の背に合わせるとなると寸法を――」
「そ、そうじゃなくて……!」
呑気な雪路の説明を遼遠は思わず遮る。言われてみれば親方と雪路が以前から何か二人で話しているのを見た気がするが、単純に仕事のことだと思っていた。雪路が遼遠のために椅子を作ることを親方に明かしていたとしたら、流石に関係を勘づかれているのではないか。雪路の迂闊な行動に、遼遠は気が気ではない。
遼遠と雪路の関係が変化したことはまだ誰に対しても言っていなかった。共に生活する親方に対しても何も伝えていない。雪路がアンリではなく遼遠という名で呼ぶのも、二人でいる時に限ってのことだ。
遼遠は自分の改名手続きについてずっと親方と意見がすれ違っていた。親方曰く、まだ半人前なのに名前だけ一人前になってどうする、といつも苦言を呈される。
基本的に遼遠と親方の関係は良好であるが、遼遠は私的な事について親方に知られることを避けたい傾向にあった。知られたらきっとまた何か言われる上に、自分とは意見が食い違うような予感がしていたからだ。名前のことも、関係のことも。
遼遠が慌てている理由を察したのか、雪路が呆れた様子で言う。
「遼遠がこっちに来てることは親方も毎回知ってるだろ」
「確かに今更かもしれないけどさ……」
店の三階にある雪路の部屋を遼遠が気軽に訪れるようになったのは、五年間過ごしてきたうちでもここ数か月前からのことだった。雪路の作業風景を見に行くという理由はあったが、二人の距離感に変化があったことを示すには十分すぎる材料である。
「お前たち……」
背後から声がして二人の体がびくりと反応する。すぐ後ろに親方が腕を組んで立っていた。
親方も遼遠の後を追っていつの間にか工房まで出てきていたのだ。遼遠は青ざめる。途中から親方に話を聞かれていたような気がする。いや、聞かれている。
遼遠と雪路は立ち上がり、親方の方を向いて続く言葉を待った。
親方は酷く呆れた様子で二人にこう言った。
「お前たち、まさか前に店を空けてまで二人で出掛けたことを忘れてるのか?」
昨年の暮れ。遼遠が雪路に名前の話と想いを打ち明け、それに返事をするために雪路が遼遠を自分の思い出の場所へ連れて行った。行って帰ってくるには普段の昼休憩の時間では少し足りないので、予め親方に許可を取って店を空けたのだ。
あの日の帰り、二人は充足感に満たされて自分達のこと以外考えていなかった。そのまま午後の仕事に戻り、いつも通り夕食をとり、眠った。
遼遠は開いた口が塞がらなかった。雪路の肩を揺さぶって声を上げる。
「あー! そうだ、そうだよ! あの後雪路が風邪引いて全部有耶無耶になってたけど! あの日俺のところに来る前、何て説明で親方に話を通したんだ」
「いや、確か、アンリとちょっと出掛けたいからって……」
首を傾げる雪路に、親方が訂正を差し込む。
「私の記憶では、アンリと大事な話がしたいから、ではなかったか?」
「ゆ、雪路……もうそれは……」
もうそれは、そういうことだろう。実際にそういうことだったのだから認識のすれ違いは無いわけだが。
遼遠はいたたまれない気持ちになる。
「まあ、深い意味があって出掛けてるに決まってるよな、そんなの。誰から見ても」
この雪路の開き直り様である。遼遠は頭を抱えた。
第一、あの時はわざわざ営業日を選ばなくてもいいはずだったのだが、雪路本人は一度そう決めてしまったら定休日まで待っていられなかったらしい。遼遠も雪路の返事が気になって生きた心地がしていなかったのは事実なので、いち早く伝えようとしてくれたことは嬉しかった。もし休みの日まで待って二人で出掛けていれば親方の知る処ではなかったかもしれないが、もう手遅れである。
「どうして雪路はそんなに落ち着いていられるんだ……」
「別に後ろめたいことじゃないし」
「俺はまだばれたくなかったんだ!」
二人のやりとりを見ていた親方は長いため息をつく。
「何故お前の方もそれでばれていないと思っていたんだ、アンリ。もういいから、お前らこっちに来て座れ」
遼遠と雪路は親方の後に続いて工房から居間へ上がり、全員でテーブルを囲むこととなった。
というわけで、親方に二人の関係はばれていた。ばればれであった。
遼遠が雪路の部屋に行き来していることや、雪路が椅子の相談をしていたことは事実の再確認にしかならない。最初から親方は全てを察していた。
「何ならご近所にも噂になっている」
「ご近所にも」
ここは狭い田舎町であるため、一人でも目ざとい人間に感づかれたら瞬く間に噂が広まってしまう。
特に遼遠を昔から知っている商店街の人々は雰囲気の変化にいち早く気づいていたのだが、自分が噂の原因であるなどとは遼遠は一切気づいていない。
「でも別に隠してなかったしな」
雪路は先程と同じようなことを言った。遼遠という名前を呼ぶようになってからの雪路は、遼遠への情を示すことをやたら直球的に口にしてくることがあった。しかも何でもないような顔で言う。
遼遠は勿論嬉しくも感じているのだが、雪路とは恥じらいの差がありすぎて調子が狂う。こちらから好意を向けるのはいいが、相手から好意を向けられることには慣れていない。
「親方や周りの人には秘密にするって言ってたじゃないか」
「それはお前の名前の話だろ。そうだ、その話もあった。この際全部親方に伝えた方が良い」
「けどそれは……」
親方の顔色を見ようとしたが、遼遠は目を合わせられなかった。いつか言わなければいけないことではあったが、やはり気が進まない。その名前は、雪路には受け入れてもらえた名前だ。既に思い入れがある。ここで親方の反応が良くなければ、普段の生活を送る中でも親方を避けるようになってしまうかもしれない。家庭に波風が立つのが怖い。
「聞く。話してみろ」
親方も促してくる。気持ちが固まっていないのは遼遠だけだ。もう逃げられなくなってしまった。
遼遠はズボンのポケットから小さい封筒を取り出した。かなりよれていて、小さい皺がいくつもある。
その封筒から取り出したのは、小さく折り畳まれた紙。遼遠が改名手続きをするための申込用紙だった。
「それいつも持ち歩いてんの?」
雪路が尋ねてきたので、遼遠は首肯した。かれこれ四ヶ月は常にポケットに入れている。中の用紙が痛んだら新しいものと取り替えていた。自分に万が一のことがあっても、遼遠という名前で死なせてもらえるように。
「親方、俺はもう大人だ。自分の名前を自分で決めたい」
用紙の折り皺を伸ばし、親方に手渡して見せる。提出日を除く必要事項は全て記入されていた。
「遼か遠くと書いて、遼遠。それを俺の名前にしたい。ハルカの――雪路の隣に、俺は居たいから」
遼遠はやはり親方の目を見ることが出来ず、その手元を見る。親方は黙って用紙を見つめているようだった。
「親方、俺からも話があります」
雪路は椅子から立ち上がった。
「これからも俺をここに置かせて下さい。俺はこの店にいたい。ここで仕事をしながら、飾水のように作品作りが出来るように学んでいきたい。俺はここでの生活が好きだし、遼遠ともずっと一緒に居たい。……それにもう二度と、親方や遼遠に心配を掛けるようなことはしません」
頭を下げる雪路に目を向けて、親方は言う。
「こっちに全く話をしてこないと思えば一遍に色々言うな。何なんだお前たちは」
親方は一度席を立ち、台所へ行って人数分の麦茶を注いできた。コップが自分の前に置かれると、その場に立っていた雪路は席に戻った。
親方も席に戻って麦茶を一口飲み、話し始める。
「順番に話していくか。まずお前たちが交際していることについては私は何も言わない。こいつがお前のことをずっと好いていたことは知っていたしな」
親方は遼遠に目を向け、次に雪路を見る。
遼遠は麦茶を飲み込むことに失敗してむせた。
「え、今、すごいことが聞こえた気がするんだけど……」
「雪路、お前をここに迎えたことは、無事にここへ戻ってきたお前に何か支援をしたいという私の気持ちによるものではある。だが、これはアンリのことを長年見てきたことも大きい。お前はお前がいない頃のアンリを知らないだろうが、ずっと抜け殻のようだったよ、こいつは」
幼い頃の雪路――ハルカが町からいなくなった後のアンリは、よくぼんやりするようになった。
その数年後に大親方が亡くなったことも心的なショックとなる。生活に支障が出ることはなかったが、暇な時間を見つけては部屋に籠って眠るようになった。何かから逃避するように。
アンリは初等教育を終えた後、心の穴を埋めようと家の仕事を手伝い始め、職人の道を志す。だがどこか上の空で、力仕事を任せるには不安が多かった。
「アンリはまだ若い。無理に跡を継がせることは諦めて、何か他のやりたいこと――例えば雪路がいるだろう都市へ行ってみるだけでも刺激にはなる。そういうことを選ばせた方がいいんじゃないかと考えていた。……そんな時に、お前が現れた。後はお前の知っている通りだ」
五年前の春先、行く宛ての無くなった雪路は十三年ぶりにこの町に帰って来た。
飾水とハルカが過ごしていた小屋は残されていたが、戸は施錠されていて雪路は中に入ることが出来ず、その場をうろついていた。
一方で、小屋の前に不審な人影があることが近所の人間から店へ伝えられる。飾水と親交を持っていた親方がアンリを連れて毎年小屋の清掃に行っていたので、親方がそこの管理人のような扱いになっていた。
親方とアンリは小屋の前に居た雪路を店に連れて行き、一先ずの宿代わりとしてうちにいることを勧めた。
雪路は前職で得ていた金があったので泊めてもらった分を支払って去ろうとしたが、親方は代わりに見習いとして店で働くことを雪路に提案し、そのまま居候することが決まった。
こうして雪路と再会を果たしたアンリは、みるみると生気を取り戻していく。張り合いを持って生活を送るようになり、明るい表情が増えた。
「だが、雪路がここで生活するのは恐らく一時的なものだと思った。雪路も雪路でどこかぼんやりしていたからな。そのうちやりたいことを見つけて別の職場へ行くかもしれないし、また都市の方へ戻ると決めるかもしれない。そうしたらアンリはきっと人知れず落ち込むはずだ。今度こそ雪路の後を追うと言い出すかもしれない。……私はアンリをこの家に縛らない方がいいと思った。お前を跡継ぎとして認めることは見送ってきた。名前も、納得のいく将来の景色をお前が定めてからの方が後悔が無いと思った」
遼遠はそれを聞いてかぶりを振る。椅子から立ち上がってテーブルに両手をついた。
「な、何だよそれ……。俺は雪路ばっかり好きなんじゃないよ、親方のことも好きだ。大親方のことも大好きだった……。この家で暮らしたいし、仕事も継ぐよ。決まってるじゃないか……!」
「そうだ。お前も、雪路の道も定まった。それを今私は知った。……だから、私も決めることにする」
親方は立ち上がって姿勢を正し、遼遠を真っ直ぐに見つめた。つられて背筋を伸ばした遼遠は、ようやく親方と視線が合う。
「私はお前たちの決意を信じることにする。雪路はここに居ていい。こいつの隣に居てやってくれ」
「! ……はい!」
雪路が慌てて立ち上がり、親方の言葉に応じた。
そして親方は遼遠の申込用紙を本人に返す。
「そしてお前を一人前の跡継ぎとして認める。ここまで私の一方的な判断に付き合わせて悪かったな、遼遠……」
「親方……」
とうとう親方の口からその名前を呼ばれて、遼遠の体の奥がツンと痛くなった。
遼遠は今まで、親方が自分の心の深い部分に触れて来ることに抵抗があった。
小さい頃から親方は優しかったが口数が多い方ではなく、日常の何気ないやり取りは出来ても真剣な話し合いは持ち掛けづらいところがある。そのため遼遠は小さい頃、雪路や大親方が自分の世界からいなくなってしまったショックからなかなか立ち直れず、一人で抱え込んでしまった。一人で抱え込むことに慣れてしまったので、触れられることが怖くなった。
こうして親方から自分の芯となる部分に触れられるのは、やはり少し痛い。しかし今感じているものは、嫌ではない痛みだった。もしかしたら、くすぐったいと表現するものなのかもしれない。
「……俺、親方が安心できるように頑張るよ。ずっと心配させちゃってたみたいで、ごめん……」
親方が日頃から遼遠のことを案じていなければ、雪路が今こうして居候していることも無かったかもしれない。親方が良かれと考えてやっていたことは遼遠と摩擦を生む部分もあったが、今日という日を迎えることが出来たのは親方のお陰でもあることは間違いない。
遼遠が俯きがちに答えていると、手元の用紙に水滴がぽたりと落ちてしまった。それに焦って瞬きをすると、また一滴。
慌てて用紙の染みを服の袖で拭っていると、雪路が親方に向けて控えめに右手を上げる。
「……思ったんですけど、ええと、つまり、これって全部俺のせいだったりしません?」
「いや、各々が勝手にやったことに偶然吊り合いが取れただけだ」
ふっ、と親方は右の口角を上げて見せた。
雪路が入浴を済ませている間に、遼遠は新品の申込用紙に改めて清書をした。同じく新品の封筒に宛名を書く。用紙の記入漏れが無いか何度も確認した後、それを封筒に収め、切手を貼る。
遼遠は今晩のうちに最寄りのポストまでこれを投函しに行くことにした。ポストの中身が回収されるのは明日の昼なので急ぐ必要はないが、それでも一刻も早く用紙が届けられるような気がして、いても立ってもいられない。
雪路も一緒に行くと言うので、投函を見届けてもらうことにした。これで明日起きた時に夢だと思わずに済む。
髪を乾かし終えた雪路と共に真夜中の商店街を歩く。この時間に営業している店は無いに等しい。
最寄りのポストは商店街を抜けた辺りに立っていた。
遼遠は意を決して、速達と示された方のポストの口へ封筒を差し入れる。手を離すと、スコン、という軽い音を立ててそれは吸い込まれていった。
管理側で改名手続きが終われば、後日その通知が遼遠へ届けられることになっている。故に手続き完了日からはラグがあるが、その通知が届いた日から実質的にアンリは遼遠になる。この町からであれば、用紙の投函から返事が来るまで一週間から二週間程度かかると見られている。
投函を見届けた雪路が遼遠に問いかけた。
「あのさ、関係ないんだけど、もしかして俺が歩くのって早い?」
「え?」
「お前が手紙出しに行くのに、俺が先に歩いてたのおかしいし」
遼遠がポストまで行く用事に雪路がついていくという話だったのだが、実はここまで歩いているうちに雪路が先を行く形になっていた。雪路はそこから普段の様子を思い返し、よくこのような状態で歩いていることに気がついたらしい。
遼遠は言うべきか迷ったが、この日人生が大きく動いた勢いに乗って、日頃考えていたことを伝えることにした。
「いや、悪い。……実は、お前の歩きが気になって、わざと後ろを歩くようにしてた」
「は? 何で」
「歩幅がさ、綺麗に揃ってるだろ。いつも」
「ああ、前の仕事の……」
雪路は霧の中を歩いても道に迷わないようにあらゆる感覚を鋭敏にし、歩幅を一定に保っている。雪路に限らず、霧の中を捜索に行くダイバーは皆訓練を積んでそれを身に着け、ぶれが出ないように日常生活からそれを実践する。
その技術を習得できるかどうかは素質によるところも大きく、ダイバーになりたくてもそれが困難である場合もままあるという。だが雪路は偶然にもその素質が眠っており、ダイバーを目指す動機があった。
「もう霧の中へ行く気は無いんだよな? だったら、もっと気楽に歩いたらいいんじゃないかって俺は思ってた。ずっと」
遼遠は、今日の営業中に穂波が訪ねてきたことすら雪路に伝えていない。雪路がダイバーになってまで見つけようとしていた育て親、行方不明であるはずの飾水が恐らく生きているらしいということも話していない。
それらを秘密にし続けることは、雪路に対しての裏切りになるかもしれない。けれど遼遠は今整っていきつつある日常の調和を乱したくなかった。青い霧にまつわることを自分たちの生活から切り離すことが出来れば、きっとこの均衡は保たれる。
「といっても、もうこれがクセみたいなものだからな」
雪路とて今後は霧の中へ飾水を探しに行くつもりはない。けれど染み付いたものが簡単に消せれば苦労はしない、と苦笑を見せる。
遼遠の中にはあるアイデアが浮かんでいた。
「――じゃあ、こうしよう」
遼遠は雪路の手を取った。
「俺と歩く時は手を繫いでほしい」
握られた手に視線を向けつつ、雪路は即答する。
「いいけど」
「なんだよその反応」
雪路があまりにも動じないので、言い出した遼遠の方が気まずくなってしまった。間が持たず、言うべきことを慌てて探し出す。
「ほ、ほら。スキップが出来る人と手を繫いで一緒にやれば、スキップを覚えられるって言うだろ? これはスキップとは違うけど、俺の歩くリズムがお前にも伝わるわけだから、そのうち……、って、あれ? でもこの場合ってどうなるんだ。逆に俺がお前の歩きに影響されちゃうのか?」
頭の中では妙案だと思っていたのだが、口で説明していくうちにそれが破綻していることに気付いてしまった。
一人で首を傾げる遼遠を見て、雪路は思わず笑ってしまう。
「フフ……。いいよ、遼遠。実験しよう。お前のペースに合わせるようにする」
繋いだ手をそのままに、雪路は遼遠に帰路を行くよう視線で示す。
ペースに合わせるだなんて、こっちは雪路のペースに呑まれてばかりだ。遼遠は、色々な気恥ずかしさのせいで自分の顔に熱が集まっているのを感じた。
ポストから工房までの道のりを手を繫いで歩く。商店街を突っ切る道とはいえ、二人の他に人通りはない。街灯があっても暗いので、恐らく手を繫いでいることも目立たない。
歩いてみた実感としては、お互いにぎくしゃくしていた。雪路は人と並んで歩く機会があまりなかったし、遼遠は自分で提案しておきながら緊張している。
「ど、どうだ?」
「わからない」
「俺も……」
並んで歩くと、肝心の歩幅を遼遠が観察することが出来なくなった。恐らく歩幅に変化はなく、お互いの歩行スピードの調整で間合いを保っていると思われた。
あるとも知れない効果をこの行為に期待するなら、今後も続ける必要があるだろうか。
「にしても、これから四六時中こうしてるのか? 本当に命綱みたいだな」
雪路の言葉に揶揄いのニュアンスは無く、ただ本心から、しみじみと語っているようだった。手を握り返される感触が遼遠に伝わる。
「あのな、雪路……。俺だって時と場所を選ぶよ」
二人の関係を隠す必要が無くなることと、何もかもを周りに明かすことは違う。雪路はいつも発想と言動が極端なのだ、良くも悪くも。遼遠は人目が気になるのでそんな振り切れ方は出来ない。
工房まで戻った二人はその玄関の前まで来る。
雪路が立ち止まって、手が繋がったままの遼遠を引き留めた。
「そういえば、俺ってもう場所関係なくお前のこと呼んでいいの?」
親方に対しては話を通したので、親方の前では雪路は遼遠をアンリと呼ぶ必要はなくなる。手続きの用紙も先程投函してきたため、近いうちに誰しもが遼遠のことを新しい名前で呼ぶことになるだろう。
「え? そうだな。いいのかも。書類に不備とかが無ければ通るはずだし」
「ふーん」
雪路の含みのある反応に遼遠は眉をひそめた。
「やっぱり、向こうから通知が届いたタイミングからの方が正しいか?」
「いや。もう呼ばないんだなと考えると、俺はアンリもアンリで好きだったのかなと思っただけ」
「いくらでも出るな、雪路節が……」
雪路のストレートな言葉に絡め取られそうになるのを遼遠は耐える。
しかしそうなると、雪路の仮名であるハルカの名の由来をなぞった遼遠はどうなるのだろうか。こればかりは人のことを言えないのかもしれない。
アンリは近いうち、正式に遼遠という名前で生き始める。そして紆余曲折あった子供時代から今、二人の行く道は定まり、これから新しい日々が始まる。
雪路は敢えて、遼遠のことを仮名で呼んだ。
「アンリ。俺のことを待っていてくれてありがとう」
「……ううん。帰って来てくれてありがとう、ハルカ」
そう言って手をほどき、二人は戸を開けて家へ入って行った。
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