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冷土にて―冬の章― / 第四話 アンカー

 降雪のピークと思われる時期が終わり、溶けていく雪の下からほんの少しだけ本来の道が顔を覗かせるようになった。冬はまだ続くが、これ以上冷えはしないだろうという期待が寒さを和らげる。

 今日の午前の店番は雪路の担当だった。

 元々賑わいのある店ではなく、多くは家具の修繕が目当ての客なので工房に繋いで終わりだ。今日もストーブの面倒を見ながら店内の掃除をし、カウンターで書類の整理をしつつ客を待った。あと三十分もすれば昼食である。

 呑気に食事のことを考えていると、店の前のタイルを軽快に歩く足音が聞こえてきた。雪路はカウンターに広げた書類をまとめ、入り口へ視線をやる。

 ドアの前で屈みこみ、ガラス越しに店内を覗き込んでいるのが恐らく足音の主だった。

 雪路は遠目に近所の子供かと思ったが、立ち上がった客は子供と呼ぶには大きかった。十代半ばから後半に見え、重いドアを押して店内に入ってくる。

「いらっしゃいませ。何かお探しですか」

「うーんと、いい椅子がないかなーって思って」

 その客はうねりのある黒髪を揺らして、こちらに笑顔を見せた。見慣れない顔だ。

 見慣れない上に風変わりな客にはいい思い出がない。天真爛漫に振舞う客に対して、雪路は思わず警戒した。

 椅子が多く置いてあるのは二階の売り場だ。レジに鍵を掛けてから戻り、階段を先導する。

 売り場を目の前にした客は今にもスキップをしそうな軽やかな足取りで椅子を見て回り、窓際にある一つに目を付けた。

「この椅子良い感じ。座ってみてもいい?」

「どうぞ」

「あっ、すごい。ここから町並みが見えるんだ」

 客の口から出てきたのは椅子の感想ではなく景色の感想だった。窓の外に釘付けになっている。

「ねえ、ここでの生活って楽しい?」

 唐突な問いに、雪路は曖昧に相槌を打つ。

「ええ、まあ、それなりに」

 客は背もたれに伸び伸びと背を預け、完全にリラックスしている。

 椅子の様子見はなかなか終わらない。今度は雪路が尋ねた。

「……ああ、もしかしてこっちに引っ越してくる予定でも?」

「ううん、違うの。そうじゃなくて」

 首を左右に振り、客は雪路の顔を見上げて、こう切り出した。

「前の仕事が恋しくなったりしてない? 青い霧のダイバー」

 雪路の身体が凍り付く。

 青い霧のダイバー。かつて雪路が勤めていた役職――霧の中で行方不明者を捜索・救助する職員――を指す言葉だ。青い霧に入ろうとも思わない一般人は勿論青い霧に関する仕事にも詳しくない。知っているとすれば物好きか関係者。そしてこの場にわざわざ訪れたということは――。

 雪路は乾いてしまった舌を唾液で湿らせ、恐ろしい考えを自ら口にする。

「あんた、グラスの人間なのか」

「そう。穂波(ほなみ)っていうの。アンカーをやってる」

 穂波は動じず、椅子から浮かせた足をふらふらと動かして自己紹介した。

 青い霧の調査・研究を主とした組織、グラス。元は顕微鏡を扱うメーカーの名前だったが、その中でも青い霧を分析するものを開発していたグループが専門機関として独立させた。様々な分野で人員を増やし、各地に支部を増やしながら現在の姿となる。

 業務は前述の通り青い霧の研究。しかし研究選任の職員が赴けるのは、長年の地図データ収集により立ち入りが容易とされた地帯だけ。他の研究機関との違いは、行方不明者等の救助活動に積極的に赴いて未解析地のデータを収集すること。本来分離されるはずの仕事を同じ組織内で扱うことで収集データと共に幅広い人材を揃え、世界の青い霧研究において並々ならぬ貢献を果たしている。

 グラスの特色とも言えるのはその救助活動に関わる面々。ダイバーと呼ばれる捜索職員は単身で現場に乗り込むが、実質的には一人ではない。アンカーと呼ばれる特殊体質の人間に常に存在を感知してもらえる状態にすることで、現場で遭難した場合でも必ずアンカーのいるところまで帰還出来るようになっている。アンカーは言わばダイバーにとっての命綱である。

 捜索の間アンカーとダイバーは一対一で繋がっている必要があり、二組以上が近い距離で行動すると“混線”するため、霧の中へはダイバー単独で入らなければならない。絶対に帰還できるという安全性と引き換えに、ダイバー個人には高い現場能力が求められた。

 幼い印象の穂波がグラス職員であることには納得があった。アンカーの素質を持っている人間は希少なため、多少風変りな人物でも重宝されることだろう。

 そんな人間がこんな田舎町まで来た理由は、概ね想像がつく。

「あんたは知らないかもしれないが、俺は辞めたんじゃなくて辞めさせられたんだ。一度不要とされた人間に何の用がある」

「何も調べずにここには来ないよ、雪路。寧ろキミは辞めさせられたことで有名だろ。僕は当時まだ小さくて正式登用はされてなかったんだけど、キミと何度か通路ですれ違ったこともあるしね」

 雪路が所属していた頃となると、穂波ももっと幼かったはずだ。そんな子供が職場にいただろうか。改めて穂波の顔を見るが、やはり雪路には覚えがない。

 穂波は前のめりになって小首を傾げる。

「単刀直入に訊くけど、こっちに戻ってくる気はない?」

 客と店員であるということすら忘れて、雪路は嫌悪感を露わにした。

 穂波は構わず続ける。

「まあとりあえず聞いてよ。……霧の中に中継地を作って、その先の資源を採って来ようっていう計画があってね」

 陸地を徐々に覆っていく不気味な青い霧。それが奪っていくのは人が生活を営む土地だけではなく、その土地にある人が生きるために必要な資源も含まれている。

 今霧に覆われた地帯には、立ち入りが可能なうちに資源を可能な限り採った土地と、スポット周辺のように、気づいた時には手遅れで霧に阻まれ資源が手付かずになったままの土地がある。

「正直、このまま普通に暮らしていく分には資源はなんとかなるんじゃないかなって僕は思ってるんだ。青い霧が陸を覆いきるよりも先に、最後の子供が老いて死ぬなんて言われたりもするわけだしね」

 穂波はとうとうと続ける。

「でも僕らは最後の子供じゃないからそんなことが言えるんだ。諦観するのではなく、すぐ先の未来にも遥か先の未来にも良いはたらきかけをするために今何かしよう、っていうのが上の人たちの考え。だから、可能性があるならその場限り以上のものを得たい。もっと資源を採りたい」

 まるで演説でも聞いているみたいだった。穂波の外見から与えられる印象と語られている内容のギャップに、雪路は混乱する。

「それに今だって、別に完璧に満ち足りてるわけではないじゃない? 霧はここまでやってこないかもしれないけど、もっともっと遠くの位置で止まってくれてた方が皆安心だ。都市の方で大型の浄化装置をキミも見たことがあると思うけど、閉め切った空間で使うならともかく、あんなもの外に置いたって意味ないよ。焼け石に水、エネルギーと資源の浪費だ。……でも多くの人が住んでいる都市を守る為なら、現状維持程度だとしても置いた方がいいのかもしれない。もっと安心したいなら、やっぱり資源がいるけどね」

 雪路は、この町の西にある雑木林のことを思い出していた。山の麓にある森からの青い霧をある程度せき止めてくれてはいるが、微量ながら林の中にも青い霧が混じってきていた。今日明日でどうにかなるわけではないが、雪路がここで暮らしていく間に霧の恐怖が目前に迫ってくることが絶対に無いとは言い切れなかった。

 もし本当にそうなったら、親方や遼遠はどうするのだろう。飾水と過ごしていたあの小屋も、きっと霧に沈む。

「それでどうにか資源を確保しようってことで、浄化装置が効く閉め切った空間を徐々に広げる形で、手付かずの土地の奪還をしようとしてる。霧の中にトンネルを掘るようなイメージをしてもらえるといい」

 思わず雪路は疑問を口にした。

「そんな中で浄化装置を動かし続けられるのか?」

「それのパイプも引くんだって。試験的に実施するとはいえすごい大掛かりだよ。資源を欲しがってる色んなところが研究費と一緒に諸々の費用とかも出してくれたみたい。うちの方も、未開の土地が研究できるからって乗っちゃったし」

「仮に出来たとして、その中継地に人が住むのか」

「仕事として、ね。疑似的に土地を取り戻しても、簡単に人は戻って来れないよ。壁に一個穴が空いたら終わりだしね」

 前置きが長くなっちゃった。そう言って、穂波は姿勢を起こし、再び背もたれに体を預けた。

「それで、キミには実地調査班に加わってもらえたらいいなって思ったんだ。人は探さないけど、とにかく歩き回って地図情報を更新し、ルートの確保をする。出ずっぱりはまずいから、勿論何人かで交代で回す。」

「そんなに機関には人がいないのか」

「僕が推薦したんだ。人が育つのだって時間が掛かるんだよ。救助活動のない探索になるからって、本試験にも合格してないような人をいきなり投入しようって話になりかけてて……。それなら現場経験のあるキミを入れた方がマシだって思ってさ」

「上が納得するとは思えない」

「キミがあの時アンカーとの繋がりを切った経緯も知ってる。救助を優先してやむを得ず、だろ。蛮勇を犯したことは確かに問題だったけど、この現場なら人助けはない。キミが無茶をする理由はないって言って大人を説得したんだよ」

 アンカー個人が人事に関わるような上の人間を説得するだなんて可能なのだろうか。確かにアンカーの素質がある人間自体は大切にされているが、過去に雪路が知り合ったアンカーたちは寧ろ上の言いつけが厳しく、窮屈そうであった。自分のいない間に機関の意識が変わったのだろうか。この穂波という人物は何者なんだ。雪路は絶えない疑問で思考を埋め尽くされる。

「僕はキミの能力を買ってるんだ。向こうに行ったら白い目で見られてしまうだろうってところは……否定できないけど、キミの力を活かせる仕事だよ。キミが最後に助けた千崎って研究員を覚えているかい? あの人も計画に加わってくれることになった。あの人はキミの味方をしてくれる。決して敵ばかりではないよ」

「……巣文さんは」

「この計画のアンカーは僕が担当する」

 計画は非常に地道で、途方も無いことのように思えた。アンカー自体が希少とはいえ、このあどけなさが残る存在がその長期間の負担を全て受け持つとは到底信じられない。馴れ馴れしくも堂々たる振る舞いは、穂波の能力の高さに裏付けされた自信によるものなのかもしれなかった。

「急な話だし、すぐに返事が貰えるとは思ってない。僕もまた来るよ。もしその前に気持ちが決まったら、ここにサインして送って」

 穂波は椅子から立ち上がり、雪路に白い封筒を手渡した。封筒にはすでに支部の住所が記載されており、中には折り畳んだ紙の感触があった。恐らく契約書の類だろう。

 穂波は一歩雪路に近づき、呟くように言った。

「しばらく考えてみてよ。もしかしたら、キミの知りたいことを見つけられるかもしれないしさ」

「あんた、どこまで――」

「お客様、すみません。一旦店を閉める時間なんです」

 階段側の仕切り壁の陰から現れたのは遼遠だった。

 昼食の時間になったら工房に居る方がもう片方を店に呼びに来る。遼遠がいつもの習慣通りに店へやってきたところ、雪路の姿が見えない。話し声を追って二階へ上がり、二人の会話に居合わせてしまったのだった。

 話にのみ込まれて、遼遠が階段を上がってくる音にさえ気づかなかった雪路はその姿に驚く。

「遼遠……」

 遼遠は雪路と目を合わせず、穂波のことをじっと見据えたままだった。咄嗟に、親方と口喧嘩している時の雰囲気に似ていると雪路は思った。

 穂波は壁掛けの時計をちらりと見て、わざとらしく驚いて見せる。

「ああ、ごめんなさい。見るのに夢中になっちゃって。じゃあこれで失礼しますね」

 出口に向かう穂波を、遼遠と共に見送りに行く。

 店を出てすぐのところに雪路と同世代くらいの人物が一人が待っており、穂波はそちらへ駆け寄った。その人物はアンカーという貴重な人員を警護する役だと雪路はすぐに察したが、何も言わずに見送る。ボディーガードはこちらを一瞥すると、穂波と共に歩き去っていった。

 雪路は正面入り口を施錠して、真っ先に遼遠に問う。

「どこから聞いてたんだ」

「あの子が俺には分からない難しい話をしてる時から」

 不快感を抑えきれない様子だ。難しい話という皮肉が、あの会話の意図が遼遠にとっても明らかなものであったことを物語っている。

 雪路はため息をつき、穂波から渡された封筒を取り出した。横向きに持ち、中の書類ごと勢い良く縦に破く。紙の繊維が千切れる乾いた音が鳴る。

「雪路」

「有り得ないだろ。いきなり来て、また生活捨てて仕事に来いって何様のつもりなんだ」

 二つになった紙くずを重ねて、もう一度引き裂く。破片を一手に握り込んで、そのままカウンター脇のくずかごに投げ捨てる。

「遼遠、俺は約束を破るつもりはない。お前に失望されたくはない」

 行こう、腹が空いた。立ち尽くす遼遠に呼びかけて、雪路は店の裏口へ赴いた。


 尾研(おとぎ)は、町の商店街の外れに停めてある漆黒に輝く車に穂波を案内した。

 後部座席のドアを開け、穂波を中へ乗せる。

 自分は運転席につき、バックミラー越しに穂波を見た。車内には穂波と尾研二人だけだ。

「奴の様子はどうでしたか」

 穂波はベルトを締めずにそのまま座席に横たわってしまった。

「うーん、怒ってた。今回だけじゃ、ウンとは言ってくれないんじゃないかな」

「だから私は反対したんですよ。あんな危険な奴は本来本試験の段階ではじくべきだった。今回の計画に入れたら、今度こそグラスは終わりです」

 尾研は車のエンジンをかけながら感情を露わにする。

「キミを店の中に連れて行かなくて正解だったよ、尾研」

「他のやり方はないんですか」

「でもこれが仕事だからねえ。他の手は考えるよ。雪路には来て貰わないと困るから」

 考えを変えない穂波の態度に尾研は荒々しくため息をつく。アクセルを踏み、車を発進させた。

 都市から雪路のいる町までは車の移動だけで半日程かかる。たった一人雪路のために、二人は往復二日以上かけてやって来ているのだ。長距離移動に疲れた穂波は、そのまま座席で眠りそうになっている。

「ベルトは締めて下さい。死にますよ」

 車は瞬く間に町を離れ、雪と雪の合間に一筋伸びる道を滑るように走っていった。


 一日の仕事が終わり、工房を出て一人店へ戻った雪路は、いつもの店の見回りを後にして裏口から再び外に出る。春が近づいてきているとはいえ、夜はまだまだ冷えた。

 目的もなく、商店街の方へ歩き始める。

 この時間まで灯りのある建物は飲食店が数軒くらいで、他は住居スペースである二階や三階からぼんやりと生活の光が漏れてくるだけだった。小さな街灯の続く道は存外暗く、足元を見るよりも点々と浮いたオレンジの灯りを追うようにして商店街を通り過ぎていく。

 やがてタイルの敷き詰められた道が途切れ、住宅や畑がまばらに位置した田舎道に繋がる。街灯同士の間隔が広がり、視界はより暗くなった。

 畑を横断するようにして小川が流れており、短い橋が架かっている。

 道なりに歩いてきた雪路は、そのまま橋に向かった。

 橋の手前まで来て振り返る。雪が音を吸っていてこの距離になるまで気づかなかったが、後方から足音が迫って来ていた。この足音は――

「遼遠。なんで……」

 工房にいるはずの遼遠が、橋のたもとに辿り着く。

「ごめん。店の方の灯りが消えるのが早すぎて、もしかしてって……」

 雪路の歩幅は一定だ。それは職業病のようなものなのだと遼遠は捉えている。歩く雪路の姿はどこか眩しくて、一方でそこに至る背景を思うと痛々しくてたまらない。道にはまだ雪が残っており、そこに等間隔で続く足跡を辿ればきっと雪路に続いていると思った。遼遠がそれをわざわざ伝えることはなかったが。

「話をしてもいい?」

「ああ」

 雪路が頷くのを見て、遼遠はその隣に並んだ。橋のたもとから細い水の流れを眺める。川縁に雪が積もっているせいで、実際の様子より更にか細く見えた。街灯の薄明りが二人を照らす。

 話というのは勿論、今日の昼間のことだ。遼遠は意を決して口を開いた。

「……俺は、あの話を聞いてしまった時すごく嫌だったし、納得出来なかったよ。……でも、しばらく考えてた。確かに俺はお前に行ってほしくない。あの話を断ってくれた方が俺は安心できる。けど……けどそれは俺の話だ」

 続くだろう言葉に、思わず雪路は身構える。

「お前は本当はどう思ってるんだ。お前は飾水さんのこと諦めてないって言ってただろ。雪路にとっては、願ってもないチャンスだったりしないのか」

 それを聞いて、雪路は心臓が強く締め付けられるのを感じた。

 心のどこかで望んだ言葉を貰えた嬉しさなのか、聞きたくなかった言葉を受けたショックなのか、判別がつかなかった。

 しかし、雪路の心は決まっている。

「優先順位ってものがあるだろ。飾水のことが大事じゃないってわけじゃない。俺はここでの生活が先、飾水はその次だ。そう決めた」

「でも……」

 雪路は遼遠に背を向けた。もう全て言ってしまおうと思った。

 夜の暗闇に向かって吐き捨てるように言う。

「俺はさ、仕事の時にどうしても邪魔になって、自分の命綱を勝手に切ったんだ。だから辞めさせられた。俺の安全を保障するという代わりに、それは俺を縛って離してくれなかった。その時に限っては」

 雪路がどんな仕事をしていたのか、遼遠は何となくは知っている。けれどアンカーのことや、仕事を辞める原因となった過ちの詳細についてまでは話したことがなかった。どこまでニュアンスが伝わっているのかは分からないが、雪路は続ける。

「こっちに来てからお前に色々面倒を見てもらって、名前の話をされて……。俺はまた命綱をつけるんだと思ったよ、良い意味でも、悪い意味でも。お前や親方とここで暮らしていければそれがいい。穏やかで、心地よくて、俺には勿体ないような日々だ。でも、それを続けるなら飾水のことや霧の先を求めることは諦めなければいけない。そしてお前がお前の名前に誇りが持てるように、俺は生きていかなきゃいけない……」

「そんな、俺は……!」

 遼遠の言葉を遮って、雪路は向き直る。視線は、真っ直ぐ遼遠を貫いていた。

「でも仕事の時のように強制されて繋がるんじゃない。感情を無視した上っ面の繋がりでもない。遼遠。お前が俺を選んだように、俺は俺で選んだんだ。お前と繋がったままでもいいって」

 遼遠の口からは、白く染まった息が上がるばかりであった。

 遼遠の顔を見ると、先程の言葉が思い出される。雪路はまるで頭痛に苦しむかのように頭を押さえ、悲痛な声を上げた。

「ここでお前にまで背中を押されて、ここを出てってグラスに戻る……? 同じじゃないか。俺は何度命綱を切ってしまうんだ。何度同じことを繰り返すんだ。目先のことにばかり囚われて、今までのことをぶち壊して、居場所を失う……」

 その場によろめき、髪をかき乱す雪路。食いしばった口から言葉にならない呻きが漏れる。

 雪路が珍しく取り乱す姿に、遼遠まで動揺しておかしくなってしまいそうだった。

 喉から絞り出すように、雪路が懇願する。

「俺はこの繋がりを切りたくない。……頼むから、お前は俺を離さないでくれ。俺は遠くへは行かない。お前と繋がっていられるなら」

 雪路は項垂れ、ぐったりとその場に膝をついた。冷えた土が容赦なく身体から熱を奪っていく。

 二人とも言葉を失った。自分たちが何を言い、何を聞き、目の当たりにしたのか理解が追い付かなかった。

 雪路は背筋が凍っていく。自分の身勝手さに辟易する。今、自分は遼遠に対して「遠くへは行かない」だなんて言ったのか。そんなものは最早脅しだ。何が強制でも上っ面でもない繋がりなんだ。

 遼遠の顔を見ることが出来なかった。今すぐ立ち去ってしまいたかったが、体が鉛のように重くて動かない。

 その場に釘付けになっていた遼遠が、恐る恐る雪路に歩み寄った。

 片膝を折り、雪路の顔を覗き込む。雪路は下を向いたままだった。その唇が微かに動く。

「悪い……」

 掠れた声が辛うじて耳に届いた。

 遼遠は小さくかぶりを振り、雪路の右肩に軽く触れた。

「……いいよ。わかった」

 風に溶けてしまいそうな声でそう答え、遼遠は目を伏せた。頬には涙が伝っていた。


 漆黒の車は未だ山道を走っていた。

 何度か休息を挟みながら進まなければならないため、都市に着くのは恐らく明け方になる。

 後部座席で眠っていたはずの穂波はいつの間にか目覚め、暗闇を流れる景色を大きな瞳で追って楽しんでいた。

 すると、思い出したように前方を向き、運転席に顔を寄せる。

「ねえ、尾研。向こうに着いたらなんだけどさ、冬が終わっちゃう前にあったかい服探しに行こうよ。これから霧の中に通い詰めになるんだから、流石に凍えちゃうよ」

「わかりました」

 尾研の返答に満足した穂波は、再び車窓から外を眺める。大きく伸びをしながら独り言ちた。

「あれから十八年かあ……。大した時間じゃないけど、もうそろそろ何とかしないとな。キミを待たせるのも良くないしね」

 バックミラー越しにちらりと尾研を見るが、今度の返事は無かった。

 雪路のいる町は遥か遠くへ過ぎ去り、目の前を流れる景色にはその名残など一片も残っていない。

 けれど野に残る雪は綿々と続いている。それはきっと霧のように途切れなく、あの町からいくつもの山を越え、今過ぎ去るこの道に至るまで、ずっと――。

 穂波は景色の先を見て、静かに呟いた。

「冷土にて、キミを待つ」

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