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冷土にて―冬の章― / 第二話 ふたり

 雪がくるぶしの高さまで積もり、庭の木に留まる野鳥が丸く膨れている、冬のある日だった。

 時計が十三時を回ったのを見計らって、雪路は作業着に重ねて上着を羽織り、工房を出た。

 工房に隣接した桔梗家具店の裏口に上がり、入ってすぐの壁に掛けてある手提げ袋とコートを回収して店側へ――レジ台の裏手へ行った。

 店番をしていたこの店の跡継ぎ――アンリが、雪路に背を向けて窓の埃を拭っているのが見える。客はいないようだ。

 雪路は声をかけた。

「アンリ、昼は」

 手を止め、ゆったりとした動作で雪路の方を向くと、アンリは表情を緩めた。

「ああ、お疲れ。行くよ」

 アンリはエプロンのポケットから鍵を出して、慣れた手つきで店の戸締りをする。「お昼休憩中」の札を外から見えるように提げた。店はこれから少し遅い昼休みだ。

 雪路から受け取ったコートを羽織って、アンリは一緒に昼の買い出しに出掛ける。いつも二人で買い出しに出て、工房に残っている親方と一緒に昼食をとるのが日常だった。近所の店で適当に買って帰ってくるだけだが、いい気分転換になる。二人のどちらかが店番をして、もう一人が工房にいることが多いため、日中に会話できる貴重な機会でもあった。

 

 雪路とアンリは幼い頃に育て親同士の縁で何度か会ったことがあるが、雪路が都市で生活するようになってから長らく交流は無かった。

 雪路が職を失って故郷に戻り、アンリのいる店に受け入れてもらったのは四年程前のことだ。十年以上の空白期間があるにも関わらず、その間もずっと親方とアンリは雪路の身を案じていた。

 帰ってきた雪路に親方は快く居場所を与えてくれ、何度か話したことがある程度だったアンリは、長年の友人として歓迎してくれた。育ての親が残した縁と二人の優しさに、雪路は感謝していた。


 店の裏口も施錠し、正面入り口側へ回って食堂街へ向かう。

 空は灰色に陰り、微かに雪がちらついていたが、傘を差す程ではなかった。薄く雪が被さったタイルの通路に、人の足跡で出来た道が薄っすらと出来ている。二人で歩くにはやや手狭だった。

「雪路、どうしよう」

 雪路の斜め後ろを歩くアンリが不安そうに言った。

「このままじゃ、また名前が決まらないまま年を越してしまう」

「まだ決められてないのか」

 雪路が答えつつ振り向くと、アンリは肩を落としていた。

 何度聞いたかわからない話題。雪路が家具店に身を置き始めてからというもの、度々この相談がやって来る。毎年数回、特に年の暮れが近づいてくると、アンリは名前を変えたいという悩みを雪路に持ち掛けるのだった。

 “アンリ”というのは幼少の頃、まだ物心もつかない頃に育て親――親方によってつけられた仮の名前だ。

 全ての子供は名前のない状態で育て親に預けられ、育てる間の呼び名を与えられる。古くからの慣習として、その子供が仕事に就くか成人年齢を迎えると、本人の意思で自分の名前を新たに付けることが出来る。

「雪路は何歳の時に決めたんだっけ」

「本試験に受かった時だから、……十六か十七くらい」

 このやり取りをするのも何度目か分からない。

 アンリはこの通り雪路と共に働いているし、年齢も同い年で成人している。けれど名前は親方のつけたアンリのままだ。

 理由は二つ。親方がアンリのことをまだ半人前だと思っている。そして、アンリ自身が名前に悩み、迷い続けている。

 何年も早く職人の道に進んでいたにも関わらず、アンリは雪路に先輩風を吹かせたりしない。親方から認められないままで、自信が伴っていないためだった。

 雪路の目から見て、アンリの腕は自虐されるようなものではない。寧ろ努力の分厚さを感じさせられる。しかし親方にとっては不足があるのだろう。職人として経験が浅いのは確かであるし、まだ若いのだから一人前を名乗るのは早いというのも理解出来る。

 けれどもそれでは、アンリが自分の名前を得られる日がいつになることか。

 改名の機会があるというだけで、名前の変更手続きには期限がない。仮の名をそのまま使い続ける人間も稀にいるが、この辺りでは特に改名の慣習が根強いので、アンリは焦っていた。

 雪路が都市にいる間に“ハルカ”という昔の名前ではなくなって帰ってきたことも、余計にアンリを焦らせたに違いなかった。

「俺も名前なんて思いつかなかったから、周りの人が考えてくれたものの中から選んだよ」

「いいよな、雪路は。雪路はいい名前だ」

「お前もご近所にアンケートとったらいい」

「それはなんか嫌だ!」

「こだわり過ぎなんじゃないのか。案外、ピンとこない名前でも名乗っていくうちに馴染むかもしれないし」

 聞き飽きたとばかりに頭を抱え込んでアンリは呻いた。

「あーもう……。お前は何かいい案ないのか」

「自分で考えたいんだろ」

「雪路が考えてくれた方がいい名前になる気がする」

 育て親に相談したら二個目の仮名になるだけ。近所の人間は名付けを任せられるほどかというと、そうではないらしい。アンリの身近な人間というと、雪路くらいになる。

「駄目だろ、なんか、それは」

 仲のいい友人同士で名前を贈り合うという事例もあるにはあると聞くが、関係性は必ずしも一定ではない。その後の人間関係によっては名前が枷に変わってしまうこともあるという。

 雪路が名前を選んだ時も、事情を汲んだ上司が職員たちから寄り集めた案を見せるのみで、誰からどれが挙がったのかは一切知らされず、本人が名乗り出てきたこともなかった。当時名付け親が気になりもしたが、それは正しかったのだと今の雪路は噛み締めている。

 一方のアンリもその提案の安易さを理解していないわけではない。

 だよな、と流して、しばし考え込んだのちに本題をもごもごと話し始める。

「実はさ、前から一個だけ考えてるのがあるんだけど――」

 人通りが増え、飲食店の並びが見え始めた。

 アンリの声が途切れたので再度振り返ると、そこに姿がない。通行人を上手く避けられずに、後方に流されかけていた。

「悪い。やっぱり後で話す」

 追いついたアンリははぐらかすようにそう言い、よく通う弁当屋の列へ向かった。アンリに続く雪路も、大人しく口を閉じる。

 店の窓から白い湯気が上っているのが見え、炊き立ての白米の香りが漂ってきた。

 冷めないうちに店に戻らなければ。湯気が曇天に混じっていくのをぼんやりと眺めながら、雪路は思った。


 昼食をとり、さらに午後の営業が終わると、再び親方と三人で集まって夕食をとった。工房の奥は居間や台所、浴室などの設備が備わっていて、親方とアンリはここで暮らしている。雪路は寝て起きる以外の時をここで過ごし、店舗の留守を預かる形で三階の部屋へ戻り、眠る生活をしている。

 親方やアンリが店の三階に来ることは殆どない。たまに物置部屋に入るくらいで、雪路を訪ねてくることはなかった。

「後で雪路のところへ行ってもいい?」

 親方が浴室へ向かったのを見計らって、アンリが小声で尋ねた。

 雪路は珍しいなと思ってアンリの顔を見る。

「名前の話、やっぱり聞いてもらいたい」

 親方の前でアンリの名前について話すのはタブーめいていた。

 今後真剣な話し合いが必要になることは確かだが、現段階では言い争いに発展してしまうのが目に見えている。雪路とアンリでこの話が出来るとしたら、買い出しの時か、雪路の部屋で手短かに済ませるくらいしかない。

「明日は忙しいのか」

「そういう訳じゃないけど、歩きながらだと話しづらいっていうか」

「まあ、確かに」

 特に断る理由はなかったので、雪路は首肯した。

「ここと違って寒いから。着込んで来いよ」


 入浴を済ませ、店の中を一通り歩き回って戸締りを念入りに確認する。それから自分の部屋に向かって寝支度をする。これが寝る前の雪路の習慣だ。

 ドアを開けて灯りを点けると、いつも通りの殺風景な部屋が現れる。工房や店舗の一階にはストーブがあるが、ここにそんなものはない。そういえば、アンリが腰を掛けられるような椅子の用意もなかった。

 ひとまず二階に降り、客用のスツールを一つ抱えて部屋に戻ることにした。

「それ二階にあったやつ?」

 階段を上がっていると、背後からアンリがやってきた。分厚い上着を羽織って、首元まで閉じている。両手はポケットの中だ。

「座る場所なかったから。……裏口閉めてきたか?」

「勿論」


 狭い部屋にアンリを案内して、運びたてのスツールに座るように言った。雪路は窓の縁に浅く腰掛ける。

 慣れないことをするのでお互いに妙な戸惑いがあった。

「――で、どんな名前になったんだ」

「あ……、ああ……」

「緊張してんの?」

 長らく引っ張った話題の一つだったので、お互いの中で自然とハードルが上がっていた。

 アンリにとっては人生の大きな選択である。

 重苦しい空気は避けたいと考え緩く構えていた雪路だが、言いあぐねているアンリを見るにつれ、自分まで緊張を感じてきた。

「また別の日にするか?」

「いや、言う! ちょっと待ってくれ、言うから」

 思わずその場に立ち上がるアンリ。

 一度お互いの視線がかち合うが、すぐにアンリが自信なさげに逸らし、床を見つめた。

 それから再び長い沈黙の末。ようやく、俯きつつも声を絞り出したのだった。

「……俺の名前、遼遠にしてもいいか?」

 床の木目に吸い込まれていきそうな弱々しい声を、雪路はどうにか聞き取った。

 りょうえん。雪路には聞き慣れない響きだった。

「遼遠……。ああ。別に俺に聞かなくても、自分で決めたならいいんじゃないのか。どういう由来なんだ」

 雪路の反応に、アンリはもどかしげに背を丸める。

 逡巡ののちに一度息を深く吸い込んで、一語一語噛み締めるように答えた。

「雪路。遼遠っていうのは、ずっと遠くって意味だ」

 突然思いもよらぬフレーズが飛び込んで来て、雪路は耳を疑った。

「それは――」

 窓辺から浮かせた足を下ろし、アンリに向き合う。

 アンリは続く言葉に悩んでいるようで、再び床を見つめて黙ってしまった。

 アンリの言葉が何を意味するのか、雪路が分からないわけがない。

 ”ずっと遠く“とは、雪路の仮名の由来と同じなのだ。今もまだ行方知らずの、雪路の育て親だった者がつけた仮名と。

 雪路は頭の中に白いもやがかかるような感覚を覚えた。


――ずっと遠くって意味だ。


 雪路がまだ幼く、ハルカという名前で呼ばれていた頃。清々しい冬晴れの午後だった。育て親の飾水と二人で家の裏手へ出掛け、雪の積もった丘まで歩きに行った。

 木もまばらで視界が大きく開けた場所だった。まだ誰も足跡をつけていない白い地面を踏むのがただただ楽しくて、目の前の丘を上り切るとその先のさらに小高い丘へ行った。ゆるやかな勾配を、手を繫いで。

 どこまでも行ける気がしたが、次第に幼いハルカの息が切れて、三つ目の丘の上で足を止めた。

 頂上から見下ろすと、ここまでの長い道のりが雪の上に点々と印されており、圧巻の眺めだった。


――あの足跡を見て御覧、ハルカ。どんどん小さくなって、ここからは見えなくなっていく。けれど家からここまでずっと歩いてきたことを、私たちは知っている。家の坂を下りた向こうには町があって、その先にはもっと大きな町がある。どこまでも世界は続いている。……お前の名前はね、ハルカ、ずっと遠くって意味だ。終わりなんて思い浮かばないことだ。


 当時の雪路には、育て親の言葉の意味など半分も分からなかった。ただこの景色が何だかすごいということと、自分の名前は”ずっと遠く“という意味を持っていることを深く考えず聞き取って、覚えていた。

 今使っている雪路という名前を選んだのも、その由来と景色を覚えていたからだ。

「よく覚えてたな。そんなこと」 

 アンリが“ハルカ”の由来を知っているのは、同じく幼少の頃その話をしたことがあったからだ。話題がないからしたのか、自慢に思って披露したのか。恐らく、飾水から由来のことを聞いて日が浅かった頃なのだろう。

 そんな他愛のない話を、アンリが今日に至るまで覚えているとは思っていなかった。雪路にとっては、言われるまで気が付かなかった程だというのに。

「……何で俺なんだ? 十年……十三年も、会ってもないし連絡すらしてなかったんだぞ。もう俺を覚えてる人なんかいないと思って帰ってきたのに」

 改名時に元の由来を踏襲したいという感覚は、正に雪路にもあったものだ。名前を変えるという行為には、良い意味でも悪い意味でも自己の同一性が揺らぐ程の影響が伴う。名前と共に自分は変わるが、変わらないものも残っているという認識を最初から得ておくには、自分と関係があるところから名前を選びたいという気持ちはよく理解できる。

「アンリはどうして、俺をそんなに好いてくれるんだ」

 自分ではなく他人の――雪路の名前の由来をなぞることの、合理性以外の意味合いに気づかないほど雪路は察しが悪い訳ではない。理屈ではないのだから、どうしてと訊いたところで簡単に説明できることでもないのかもしれない。アンリの瞳は床を映していたが、どこか別のところを見ているようだった。

 アンリはおもむろにスツールに腰かけ、膝の上に両腕を置いて祈るように組んだ。

「雪路が戻ってきたって知って、うちに来るって決まった時から、お前と合う名前がいいと思ってた」

「……もし俺がまだ、向こうにいたら?」

「今もずっと思いつかなくて悩んでいたかも。どっちにしろ、親方は許してくれないしね」

 アンリは苦笑する。いつの間にか肩の力が抜けていた。

「親方のことよりも、このことをお前に聞いて欲しかったのかもな、俺は」

 アンリは雪路の顔を見上げて、照れ臭そうに笑う。背負っていた焦りが薄れ、清々しささえあるかのように雪路の目には映った。

 改めて聞くけれど、と前置いて、アンリは背筋を伸ばして雪路を見据える。

「俺がやろうとしていることは、お前の大切なものを横から取るようなことだと思う。それは、雪路にとって嫌じゃない?」

 反射的に、そんな言い方はないだろうと言いたくなる。

 例え実態がそうだとしても、嫌だという返答を自分から引き出そうとするアンリの自嘲的な態度に雪路は迷ってしまう。

「……正直、まだ頭が追い付いてない。お前の方こそ、それで後悔するかもとかは思わないのか。その、俺はこんな感じだし……そっちの方が気掛かりだ」

 自分という存在が、目の前の友人の人生を左右していいのだろうか。今は二人とも修行中の身で、家族のように過ごせているが、この先は。前の仕事を辞め、この店に転がり込んで数年の雪路には未来の展望など見えていない。

 雪路は思った。何があってもアンリはその名前で生きていけるのだろうか。自分のせいでアンリが後悔することになれば恐ろしい、と。

「とにかく、少し時間をくれ」

 雪路の吐露に対して、アンリの声は穏やかだった。

「そう言ってもらえるだけで、嬉しいよ」


 それから一週間程が経った。

 雪は降ったり止んだりを繰り返し、庭の積雪は足首がすっぽり埋まる程度に微増した。対して屋根の氷柱は大きく育ち、冬の深まりを感じさせる。

 時計が十三時を回ったのを見計らって、雪路は家具店の裏口に上がった。

 入ってすぐの壁に掛けてあるコートを回収して店側へ――レジ台の裏手へ行く。

 店番をしていた跡継ぎが、雪路に背を向けてしゃがみ込み、床の埃を拾っているのが見える。客はいないようだ。

 雪路は意を決して声をかけた。

「遼遠、ちょっと散歩しよう」

 立ち上がって雪路の方を振り向いた遼遠は、戸惑った表情をしていた。やや遅れて返事をし、店の戸締りを始める。

「もう飯買ってあるから。食べながら行こう。親方には店を空けるって言ってある」

「どういうことだ?」

 コートを受け取りながら、遼遠はますます困った顔をした。

「ああ、忘れるところだった」

 雪路は入り口の方へ赴き、「お昼休憩中」の札の横に張り紙を追加した。「御用の方は隣の工房まで」とある。これから二人は、少し長めの昼休みを取る。

 裏口から揃って外へ出て、空を見上げた。冷えた空気がツンと心地よい、冬晴れの青空だった。

「なあ、雪路。聞き間違いだったら悪いんだけど……」

「親方がいるとこでは呼ばないよ」

 雪路はあっけらかんと答える。

「どう思う」

「まだ、わからないかも……」

 遼遠は呆然として、用もなく握りしめたままだった店の鍵をようやくポケットにしまった。

「でも、親方の耳に入ると悪いから、人気のあるところでも止めておいて欲しい……」

「狭い田舎だからなあ」

 もし本人が嫌ではないなら、アンリのことを遼遠と呼んでみることにしようと雪路は思った。

 親方が遼遠を認めるのはまだ先のことになるかもしれない。雪路がこうしても、表層だけの変化が逆に遼遠を焦らせてしまうかもしれない。

 けれど、望んだ名前で振舞える時間が、少しでも本人の自信に繋がることを期待していた。もっと言えば、単に遼遠が喜ぶのではないかと雪路は考えたのだが、実際の心境は複雑なようだった。

 ともあれ、いずれそう呼ぶことになるのなら、今から慣れておくのも良い。

 町はずれへ向かいながら、雪路は買っておいたベーグルサンドを遼遠に渡した。

 艶のあるベーグルサンドに口をつけず暫く見つめていた遼遠が、雪路に問いかける。

「こっちの方向ってもしかして、お前の家に行くのか?」

 町はずれの坂を上った先に、ぽつんと建っているのが雪路がかつて飾水と住んでいた家。アトリエを兼ねた小屋だった。勿論今は誰も住んでいない。雪路は毎年の夏に一度手入れをしに行くのだが、冬場に行くのは初めてだ。雪路が町を離れている間は、親方がたまに家の様子を見に行ってくれていたという。遼遠もまた、それを手伝っていた。

「そうなんだけど、行けそうだったらもう少し先まで行く」

「喉に詰まっちゃいそうだ」

「まずい、水筒を忘れた」

「違うんだ。緊張して……」

 人通りのない道は雪が深く、辛うじて歩ける積雪の浅いところを歩くのも一苦労だった。物を食べながらなら、余計である。

 雪路の家の前までどうにかやって来ると、そこで一度呼吸を整えた。

 見上げると、小屋の屋根には一面にふっくらとした雪の塊が乗っている。

「家に用があるわけじゃないんだが、今開けたら潰れるかもな」

「雪を下ろした方がいいんじゃないか」

「それはまた今度でいいよ」

 カーテンを閉め切った窓から中を窺い知ることはできない。またネズミや虫の寝床になっているのかもしれないな、などと気が重くなったのはさておき。雪路は敷地を迂回して、遼遠を家の裏手へ案内した。

 誰も足跡をつけていない真っ白な地面がどこまでも続いていた。雪路の記憶よりも、今は雪が深い。

「なあ遼遠。この先に行って大丈夫だと思うか」

「どこまで行くつもりなんだ」

「子供の俺が歩いたくらいだから、大した距離じゃないと思うんだが」

「せっかくここまで来たんだ。行こうよ」

 遼遠が頷くのを見て、雪路は丘へ向かって歩き出した。


 雪の深さは、膝と踵の中間くらいまであった。

 雪路が先行し、その足跡を踏むようにして遼遠が続いた。

 氷の粒の上を歩いているはずなのに、全身から汗が滲むほど暑い。無防備に冷気に触れている顔や耳だけが、痛いほど冷たい。

 歩幅は子供の頃より大きくなっているせいか、一つ目の丘を上り切るまで時間はそこまでかからなかった。やはり距離としてはそこまでではないのかもしれなかった。

 息を切らしつつ雪路はここまで来た訳を話そうとしたが、

「昔、飾水と、ここを、歩いたんだ」

というところまで声に出して、それ以上は説明のしようがないことに突き当たり、上手く伝えられなかった。

 後方から聞こえる、遼遠の「ああ」という返事。雪路は、この説明はもう十分なような気がして、そのまま歩き続けた。


 小屋から十五分ほど歩いて、三つ目の丘の上に来た。

「大丈夫か、遼遠」

「ここ?」

 先に立ち止まった雪路は、勾配に苦戦しつつ上ってきた遼遠の手を取り、最後の一歩を手伝った。

 遼遠は息を落ちつけながら雪路の隣に立ち、これまで来た方角を見下ろした。

 足元から真っ白な野に続く、ミシン目のような足跡。直線に歩いてきたはずなのに何度か蛇行した様子があり、やがて小屋の陰に消えていく。

「そっか……」

 そう呟いて、遼遠は目を細めた。口から白い息をもらし、景色に見入る。

 一方で雪路は、懐かしいような、そうではないような感覚で、あの頃の記憶と重ね見た。

 雪の違いもあって、ここまでの道は案外険しかった。雪に足跡をつける快感なんてものはなく、機械的に足を動かすばかり。ブーツの中に雪が染み込んでつま先が凍えそうだ。散歩だなんて言って遼遠を連れてきたことを申し訳なく感じた。

 けれど己の足跡が続いていくこの景色には――世界がどこまでも続いていることを訴えかけてくる力のようなものが、やはりあった。

 足跡の届かない程先の景色に佇む山や森も、冬の澄んだ空気のお陰ではっきりと見えた。

 そこに立ち込める不気味な霧の青さも。

 飾水は何処かにいるはずだ。かつて雪路に語った言葉通りに、世界が終わりなく続いているなら。


 遠くの景色を見つめながら遼遠が言う。

「俺思うんだ、雪路。お前がこのままうちの店で、あの工房で物を作っていけたらいいって。うちにいても、きっとお前の作りたいものは作れるよ。飾水さんの跡を継ぐことは何も、あの場所でしか有り得ないって訳ではないだろう?」

 雪路は、先程見てきたばかりの小屋の様子を思い返す。

「それは……。俺も、同じように思ってるさ。飾水のことを全部無かったことにするなんて出来ないけど、あの家はどんどん弱っていくし、俺が独立出来たとしてもその頃まで持ってくれるか分からない。お前や親方が許してくれるのなら、寧ろ俺から頼みたいことだ」

「飾水さんのことを、まだ探すつもりなのか」

「俺が諦めたら終わりなんだ。自分の手で探す資格は無くなったけど、何処かで見つかってくれるのを待ち続けるよ」

「もう危険なことはしないでくれよ、雪路……。俺はあのことがあってから、お前が遠くへ行ってしまってショックだった。お前がどこかで死んでいるかもしれないと思って怖かった」

 雪路が飾水と生き別れになった場所は、この町からうんと離れた都市側に面した森の中で、救助された雪路は都市の病院に運び込まれた。なぜそんな遠い場所にわざわざ連れていかれたのか、雪路の記憶は定かではない。あの事件の前後のことはどれも曖昧なままだ。

 一命を取り留めた雪路は消えた飾水の行方を追うことを決意する。目覚めたら一変していた人生に混乱が収まらない中、殆ど衝動で動いていた。その都市に支部が置かれている青い霧の実地調査を行う機関の門を叩き、捜索職員として霧の中へ入る資格を得るまで長い年月を過ごした。活動の中で飾水を見つけるまでは故郷に戻らないつもりだった。戻っても、意味がないと考えていた。

 一方で、町の方には安否の連絡が届いたきりとなり、その後の雪路のことを遼遠たちが知る術はなかった。

 雪路が帰ってこないことを日に日に思い詰めた遼遠は、ハルカという名の由来の話がまじないのように思えていったのだと言う。


――おれの名前はね、ずっと遠くって意味なんだって。

――遠くへ行っちゃうの、ハルカ。

――違うよ。行かないよ。この前飾水に教えてもらったの。

――行くときはおれも行くから。遠くに行くときは一緒だよ。


「心配性だな」

「今もだよ」

「確かに、心配かけるようなことはしたし、悪かったよ。でももう無鉄砲に探しに行く考えなんてないし、お前の気持ちにも応えたい。ここにいていいなら、ここにいるよ」

 あと……、と雪路は続ける。

「何回か呼んでみたけど、いいんじゃないのか、名前」

 言い終えて、遼遠がどんな顔をして聞いているのかは見なかった。

 後方から吹き降りてくる風が、耳元で高い音を立てて駆け抜けていく。

 見えない風を目で追っていると、風景越しに遼遠と視線が合うような不思議な感覚がした。

「ありがとう。俺にこれを見せてくれて」

 隣に佇む遼遠の声が、少し震えていた。

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