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冷土にて―冬の章― / 第三話 閃光

 絞り出した自分の声の情けなさに、雪路は顔を覆いたくなった。

「丸一日捜索に出てても平気な俺が何であれくらいで……」

 雪路の変り果てた姿に、親方はひどく呆れていた。

「なんてザマだ。出掛ける許可を出すんじゃなかったよ。さっさと治すことだな、雪路」


 遼遠と雪の中を歩いた翌朝、雪路は息苦しさで目覚めた。まだ日も上がり切らない早朝だった。

 装備も準備もろくにせず雪を分け入ってきたせいで雪路は体が芯まで冷えてしまい、典型的な風邪症状に見舞われることとなってしまったのだ。熱と倦怠感、そして喉の奥に刺繍針が引っかかっているような痛みと湿った咳。体調の急変具合に、雪路はまだ夢を見ているんじゃないかと錯覚する。

 三階の部屋からどうにか隣の工房まで壁伝いに歩いたが、この状態で働くのは到底無理な状態だった。

 雪路の顔色を見た親方が居間のソファに雪路を寝かせ、今日はそこに居るように言いつけた。自室には暖房も何も無さ過ぎて、療養しようにも逆に風邪が悪化する一方だと思われた。雪路は親方の言葉に甘えさせてもらうことにし、ソファの上で浅い睡眠を何度か繰り返した。時間の間隔も曖昧になり、あれから何時間経ったのかもよく分からなくなってくる。

 親方は付きっ切りで看病するわけではなかったが、作業の合間に居間にやってきては雪路に水を飲ませてくれるのだった。喉の傷に触れた水が塩辛く感じる。何か食べた方が良いが、食欲がない。

「そういえば、る……アンリは」

「お前の寝てる間に起きてきて店の方に行った。お前と違って元気だよ」

 二人で共倒れになることは避けられたようで、雪路は一先ず安心する。慌ただしい店でないとはいえ、少なくとも今日一日は遼遠に仕事を任せなければならないので申し訳ない。面倒を見てくれる親方に対しても、心苦しく感じた。

「すみません。俺ばかり情けない……」

「お前はそう言うが、私たちからすれば何度も霧に出入りしているやつの方が常人より肺や体をやっていると思うがね」

「それは……おっしゃる通りです」

 生活可能区域の周囲を覆い、徐々に拡がっているという不気味な青い霧。その中に入って何も装備をせず、長期に渡って呼吸を繰り返していれば肺や粘膜を痛めてしまうと言われている。

 雪路はかつて、霧の中の行方不明者を捜索し、救出する仕事をしていた。三年程の短い期間でクビになってしまったのだが、その間で体に何もダメージが残らなかったかは疑わしいところである。

 捜索職員に用意された装備であれば霧の中で数日間の活動が可能とされているが、青い霧環境下における困難は呼吸だけではない。一年を通して気温が低いこと、視界がとにかく悪く、日の光も殆ど届かない薄暗さであることは、長期に渡る活動で心身に悪影響を残しかねないとされている。

 雪路の所属した機関は、あくまで霧に関する調査を主体としたものであるため、行方不明者の捜索が途中で打ち切られてしまうことも――あまり表沙汰にはならないが――ままある。常人が霧の中で数日間生存している可能性は極めて低いということもあるし、捜索職員を無闇に消耗させることは避けたいのだろう。いくら霧の環境が人体にそぐわないとはいえ、指示と規則の範囲内で仕事をこなしていくのであれば重い後遺症を負うことはない。

 ただし雪路に限っては、後遺症に繋がる心当たりがある。

 十八年前、雪路がまだ六歳の頃。都市側の青い霧の掛かる森林の中で、育て親だった飾水という人物と生き別れになった。

 何故そんな場所へ二人で行ったのか、何故はぐれてしまったのかは思い出せていない。飾水がオブジェ作りを生業にしていたことから、森林内に眠る資源を材料として採取するために訪れたのではないかという見方が有力である。 

 雪路は森林の中で一人倒れているところを救助され、病院に運ばれた。当日の明け方、霧の中へ飾水と二人で入っていく様子を目撃した者がいなければ、行方不明になったことさえ分からず手遅れになっていただろうと言われている。

 一方で飾水の行方は未だに分かっていない。普通に考えれば生きているはずがないが、雪路は生存を信じて止まなかった。霧の中で大切な人間を失った者たちは皆、そう願わずにはいられなくなってくる。

「あの時の病院では、後遺症は残らないと言われたはずなんですけどね。……でなければ、ハンデのある俺が機関に歓迎されるはずありません」

「しかし、風邪を引いたやつは久しぶりに見たからな。自分が人より丈夫だと思って生きるのはよした方がいい」

 コップに水を注ぎながら親方がくつくつと笑う。今どれだけ雪路が強がったところで意味がなかった。

 本当は、幼少時の件以外でも色々と無茶を通そうとして体に負担をかけた心当たりがある。そこまで語るのは気が引けたので、雪路はそれ以外何も無かったかのように装っている。

「医者はどうする」

「流石にいいですよ。一日休ませて貰えばマシになりますから」

「そうか。じゃあ寝てろ」

テーブルにコップを置いて、親方は仕事に戻っていった。


 人が居間を行き来する物音が聞こえて、雪路は重い目蓋を持ち上げた。

 遼遠が麦茶を注いでテーブルに並べているところだった。テーブルの奥に親方の姿も見える。ということは昼か、と雪路はぼんやり思う。

 遼遠は雪路の目が覚めたことに気が付いて、ソファの前で屈む。

「雪路大丈夫? 麦茶いる?」

「ん……」

 頷いてぐらりと上体を起こす。肺にあった息が喉に上がってきて、咳き込んだ。

「朝から食べてないだろ」

「……喉が痛くて、食えない」

 重症だな、と遼遠は肩をすくめる。

「親方が秘蔵のはちみつ出してくれたから、お湯で溶いてやるよ」

 な、と親方に笑いかける遼遠。二人の気遣いが雪路の身に沁みた。

 淹れてもらったはちみつ湯で口を濡らす。眠気を誘う、重くて甘い香りがする。

 ソファの上で毛布を被りながら、少し遠巻きに親方と遼遠が食事をするのを見守った。

「お前が来る前は元々二人で切り盛りしてたんだ。別に心配はいらない」

 また雪路が謝罪を口にすると思ったのか、親方が念を押す。

 続いて遼遠も頷いた。

「大変って言っても、お前が経験してきた苦労には及ばないしね」

 雪路の経験してきた苦労。飾水を探すために身寄りのない子供のための施設に身を置き、孤独に学び、訓練に励んだこと。ともすれば死の危険がある青い霧の中へ何度も行き、遺体を持ち帰り、時には人命を助けたこと。

 生活の場を青い霧によって脅かされるも、多くの人間は霧から遠ざかって何事もなく過ごしている。稀に霧の中に立ち入ってしまう人間や、それを助けに行く人間の存在こそ知っていても、非日常である現場の景色は普段の生活からは想像することが出来ない。

 自己管理を誤ったことを詫びて、自分が楽になりたかったのは否定できない。しかし別にそうまで言わせたかった訳ではなかった。遼遠の謙遜癖に、雪路は何も言えなくなる。

 食事を済ませ仕事に戻っていく二人を見送り、再びソファの上に横たわる。

 飲み干したはちみつ湯の甘さが全身の倦怠感に絡み、解けていくような心地。薄暗い居間をうとうとと見つめていた雪路は、何度目か分からない眠りに落ちていく。今度はもっと奥深くへ。

 雪路は、自分が最後に青い霧の中で仕事をした時の記憶を夢に見た。


――雪路が十九歳の頃。間もなく春が訪れようとする冬の終わり。

 雪路が命じられたのは、行方不明となった同機関の研究職員の救助であった。

 捜索職員としての資格を持っていない、霧の研究を専門としている職員も霧の中に立ち入ることができる。ただし、それは長期の調査によって十分な地図データが揃っている所謂“浅瀬”に限った話。その日彼らは「アンカー」無しの複数人で実地調査を行っていた。

 そのはずだったのだが、うち一人の職員・千崎(せんざき)が限られた領域を超えて森の奥へ入ってしまい、帰って来なくなった。流石に本人も状況を理解し救助を待っていると思われるため、そう遠くへは行っていないだろうと言われた。行方不明となってから三時間が経過していた。

 装備を整え、他の職員と共に霧の深くなる手前まで車で向かう。後ろには被救助者を運ぶための車がもう一台ついてくる。

 霧の中では視界が殆ど役に立たない。コンパスである程度の方角が把握できたとしても、人の立ち入らない道なき道を進むのは容易ではない。霧の外で待機している職員との無線会話と、歩きながら作り上げる脳内の地図が頼りだ。

 持ち歩く音波装置が周囲の障害物情報を集積するが、内部に数値が記録されるのみで解析作業が必要。データをリアルタイムで送受信することも現状出来ないため、詳細な地図を確認できるのは帰還した後になる。これまで解析した地図データは手元にあるが、向かうポイントをカバーしきれていないことは多々ある。その上、霧の中でいちいち図を確認するのは時間も取られてしまう。

 地図が分かったとしても自分の現在位置は把握出来ないため、一定の歩幅を保つことと、方角と時間の感覚を常に意識することで自分の移動距離をコントロール出来るかが重要になる。

 そして捜索上の命綱となるのがアンカーの存在。

 ここで突飛な話になるが、アンカーとは超能力のような特殊な感覚を持った人間たちのことで、機関にも数える程しかいない。アンカーは捜索職員に対して一時的な催眠状態をかけつつ”繋がる“ことで、その存在の位置をおおよそ掴むことが出来る。

 アンカーから見て、対象に見えないロープが伸びているようなイメージだと言われている。捜索職員が万が一遭難してしまっても、ロープの方向としなりから指示を出して誘導し、或いは強制力をもってアンカーの元に手繰り寄せることが出来る。

 そのロープには長さの限度があり、アンカーの資質と対象者との相性によって変動する。ロープが届かない場所への捜索は、残念ながら諦めるしかないのが現状だ。被救助者がその先に行っていないことを祈るしかない。


 車が止まり、雪路は隣の座席にいるアンカー・巣文(すぶみ)と向き合った。巣文は雪路の三つ歳上の職員で、これまでも何度か仕事を共にしている。自身のアンカーとしての資質を活かすことに使命感を感じる一方で、霧の中へ職員を一人で送り出さねばならないことに胸を痛ませている誠実そうな人間だった。

 呼びかけられた巣文は雪路の両肩に手を乗せ、念じるように目を閉じた。

 アンカーと繋がっている側の感覚には個人差がある。手に繋がっていると感じる者、ハーネスのように感じる者、アンクレットのように感じる者。

 雪路はアンカーが誰であっても、いつも首輪をつけられているように感じていた。

「行ってきます」

 雪路は一人車を降りて両手それぞれに折り畳み式のポールを握り、青い霧の中へ進んだ。“浅瀬”を超えて、その奥へ。

 足が地面を蹴る音、背の荷物に提げた鈴の音が歩調に合わせて一定のリズムを刻む。そして目の前の木や段差を感知した音波装置から不規則に電子音が鳴る。

 呼吸を維持するために背負っている空気シリンダーは四本。

 一本を使い終えたら濾過装置を稼働させて、もう一本を使っている間に空気を再充填。二本でローテーションさせれば、フィルターが限界になるまで何度でも使える。残る二本は緊急時及び被救助者用だ。

 被救助者の居場所は、対象が身動きが取れた場合に音波装置が僅かな動きを察知して音で知らせてくれる。力尽きて倒れてしまっている場合はひたすら歩いて狭い視界を探り、己の感覚を研ぎ澄ませて気配を探すしかない。後者の場合、発見出来たとしても手遅れであることが多い。

 遠くへは行っていないだろうという話だったが、千崎と思われる反応はなかなか見つからなかった。

 車で待機している職員からの通信。

<二時間経過してる。状況は>

「予定通り北東方面を探ってますけど、全く気配がありません。もっと奥へ行ってしまったのかも」

<何をしているんだ、千崎は……>

<そのまま北東へ。周囲のデータから細い河川があちこちに広がっていると思われる。引き続き足場に注意されたし>

「了解」


 指示の通り進むと、確かに遠くから水の音が聞こえて来る。

 捜索開始から五時間半。日が沈み始め、霧の青は紺に変わった。

 小川のせせらぎを左手に聞きながら歩みを進めていると、ふと、どこかから人の声のようなものが聞こえた。

 雪路ははっとして足を止め、耳を澄ます。しばらく間が開いて、遥か前方から人が何か短い言葉を叫ぶ声が聞こえた。叫んでいるといっても、相当疲弊した様子だ。

 きっと千崎に違いない。雪路は歩幅を崩さぬように歩くスピードを上げ、通話のボタンを押した。

「今前方から声のようなものが聞こえました。千崎かと思われます。急ぎ確認します」

 返答は、アンカーの巣文からのものだった。

<雪路、もしかしたら……>

「巣文さん、何ですか? 上手く聞き取れません」

 駆けるように進んでいた雪路の脚が、急に動かなくなった。

 無線から再び巣文の声がする。

<限界地点だ、雪路。残念だが、それ以上は進めない>

 頭が真っ白になる。アンカーとの繋がりの限界。見えないロープが張り詰めて、雪路を前へ行かせてくれない。

 首に繋がったロープを引く獣のようにもがき、雪路は抵抗する。

「何でですか、目の前にいるんですよ! そっちが動いてください! 救助後に俺が車を誘導して外に出します!」

<もうそのつもりでずっと車を動かしている。だがもう車両を進められる程の隙間が無いんだ。私が車両を降りてさらに先へ進めればいいが……、許可が降りないんだ。雪路、理解してくれ>

 巣文の悲痛な言葉が続くが、雪路の頭には上手く入ってこない。

 前方から千崎と思われる声がまた聞こえた。今度は言葉の輪郭がおぼろげに分かる。こっちだとか、ここだ、といったようなことをこちらに呼びかけていた。

「待ってろ……」

 なおも雪路は体を後ろに引かれる感覚に抗い、前のめりになって歩みを進めようとする。

 歯を食いしばり、唸り声を上げた。

 動揺を滲ませた巣文の声が耳元で響く。

<よせ、雪路>

「……俺を、離せ」

<おい、抵抗するな!>

「見殺しにさせるつもりか! くそっ、くそっ、離してくれ!」

 何かが軋むような音がする。

<聞いているのか! 雪路っ!>

「ああああああああ!」

<雪路!>

 ブチブチブチッ、という繊維を引きちぎるような音が脳の中に弾け、視界にオレンジ色の閃光が散った。

 雪路はつんのめった勢いのまま地面にぶつかる。

 息が乱れ、眩暈を起こしかけていた。不快感を必死に払いながら体を起こし、装備の上から首の周りを手で擦った。

<雪路……。平気か。お前は、何ということを……>

 驚愕、怒り、呆れ、恐怖――。巣文の形容し難い感情が、息遣いから伝わってくる。だがまだ、雪路は事の重大さを理解しきれていない。

 雪路はアンカーとの繋がりを自分の手で切ってしまった。

 息を整え、おもむろに無線のボタンを押して返答する。

「俺は……大丈夫です。千崎を救助して帰ります。車も誘導しますから、無闇に動かないで下さい」

 巣文からの応答は無かった。

 じきに日が完全に落ちる。僅かな日の光さえ失えば、森の中は完全な闇となる。

 アンカー無しでの帰還は己の方向感覚と記憶を頼りに行うしかない。

 人によって限界地点に差があるとはいえ、これだけ奥地へ来たのだ。ここで更に雪路が迷ってしまったら、千崎と共に救助される可能性は絶望的だろう。

 拘束が解かれた体は、心なしか軽やかだった。改めて声の聞こえた方向へ向かう。

 少し歩くと、大きな高低差を検知したアラームが鳴る。この先は下り坂になっており、川辺へ続いているようだ。雪路は下方に、人の気配を感じた。

「千崎か!」

 雪路の呼びかけに、千崎が答える。

 斜面を下り、周囲をペンライトで照らした。光は霧の先まで殆ど届かないが、それを見つけた千崎の方が雪路を呼んだ。

「千崎だな?」

「ああ、そうだ。助かった……。鈴の音が聞こえたときは、奇跡を感じた」

 千崎は雪路とそう歳の変らない研究職員だった。雪路程ではないものの、霧の中で活動できる最低限の装備をしていたので、疲弊しきっている以外には大きな問題はなさそうであった。

 雪路は少しでも安心させようと未使用のシリンダーを提供し、落ち着いて呼吸させた。

 無線で報告する。

「被救助者発見。意識あり、外傷なし。ただし疲弊しきっており徒歩での帰還は困難と判断。ボートに乗せて救助を行います」

 やや遅れて、車で待機している職員から応答がある。

<了解。アンカーの力が使えない以上、こちらからのナビゲーションは難しい。周辺の地形を説明してもらえれば照会できるが、あくまで参考程度にしかならない>

「了解。また報告します」

「今、アンカーがどうとか聞こえなかったか」

 雪路の耳元から漏れる通信の音を聞き取った千崎が、不安げに尋ねた。

「大丈夫だ、無事に帰れる。……そういえば、あんたの無線はどうしたんだ」

 比較的安全な地帯とはいえ、千崎は青い霧の中で実地調査をしていたのだ。他の職員と連携を取る為に無線をつけているはずだった。

 千崎はかぶりを振った。

「違うんだ……。いや、違わないんだが、無線での呼びかけがあったはずなのにここまで来てしまった。声が……、声が聞こえて……」

「何? この辺りに他に人がいるのか?」

「違う。いや、そうなのか? 分からない……。調査地からこの辺りまでずっと声が聞こえていて、私はそれを追ってしまった。そこの斜面をうっかり転がり落ちて、とうとう我に返ったというか、力尽きた。無線はその時調子が悪くなってしまった」

 雪路は千崎にここで少し待つように伝え、念の為周囲に人がいないか確認しに行く。

 川に沿い、上流に向かって歩いた。 

 すると、進むにつれて装備越しに微かな風を感じる。雪路は手元に地図データを広げ、ライトを当てて目を凝らす。今現在雪路が探索した分のデータは反映されていない上に、奥地であるため殆ど情報がない。脳内の地図と照らし合わせながらおおよその現在位置を検討する。

「もしかして、スポットが近いのか……?」

 拡がった霧に覆われる以前の地図情報すら残っていない、青い霧の発生地と仮定されている土地が世界に点在しており、そこをスポットと呼んだ。

 スポットの実地調査の記録は殆ど残っていない。土から濛々と霧が生み出され、空高くへは上がり切らずに一定の高度まで行くと地表に流れていくらしい。そのためスポットでは気流の流れを感じるというが、大昔の記述故にどこまで信憑性があるのかは不明だ。

 千崎が聞いた声が風の音であればいいのだが、“浅瀬”まで聞こえて来るということは考えられない。

 雪路が地図データを前に眉間を寄せていると、音波装置のアラームが鳴り、左手を流れる川からパシャッと水が跳ねる音がした。

 驚いて音がした方向を見る。恐らく、落ちてきた木の枝などが水面に当たったのだろう。そう考えたのだが、パシャパシャパシャパシャ……と、今度は川の中を歩いているかのような音が続いた。

「誰だ!」

 雪路は叫んだ。青い霧は他の陸上動物にとっても有害だ。長い年月を掛けて完全に霧に適応した種――虫や微生物はともかく、大型のものはこれまで発見報告はない――でもいない限り、霧の中に野生動物は住み着いていないはずだ。

 心拍数が跳ね上がり、嫌な汗が滲む。水の跳ねる音は止み、川のせせらぎだけがある。

「誰かいるんだろう! 返事をしてくれ!」

 何も反応はない。雪路は耳にした音を脳内で繰り返す。あれは、四足歩行の動物が川を歩く音だっただろうか。二足歩行のように聞こえなかっただろうか。まさか本当に、声の主がここにいるのか。

 雪路はその場に静止し、再び水の音やそれ以外の反応がないか辛抱強く待ち続けた。

 しかし、それ以降何も起こることはなかった。


 雪路は千崎の居場所に戻った。

「どうだった」

「誰もいなかった。だけど……」

「何かあったのか」

「……いや、何も。待たせてすまなかった。早く帰ろう」

 雪路は救助用ボートを広げる。ボートというよりも、実態は簡素な造りの折り畳みのそりであるため、乗り心地はあまり良くない。なだらかな場所ではこれに救助者を乗せて引き、傾斜が強い場所や段差の上ではボートから下ろして担いで運ぶ。どちらにせよ歩みが遅くなるため、迷わずに森を出られるとしても相当な時間がかかると思われた。体力も、来た道の倍以上を使う。

 雪路はボートを引きつつ、千崎に声を掛ける。

「そういえばその聞こえた声って、どんな声だったんだ」

 ボートに揺られながら、千崎はまどろんでこう呟いた。

「十歳くらいの、子供の声さ」


 捜索開始から実に二十一時間をかけて、雪路は無事に霧の外へ戻って来た。

 限界地点を超えた上でのアンカー無しでの生還。機関の記録上類を見ない事例である。噂は瞬く間に広がり、支部内で大いに話題になったことは言うまでもない。

 しかし、機関が雪路に言い渡したのは捜索職員としての契約解除であった。

「アンカーとの繋がりを一方的に切り捜索を続行……。とても容認できる行為ではない」

「捜索職員はあくまで自分の命を第一に考える。お前は運良く生還できたが、他の人間が感化されたらどうするつもりだ」

「組織はお前を罰し、お前の選択が否定すべきものであることを示さなければならない」

 あの日、帰って来た雪路に巣文が何も声を掛けてこなかった時から、このような展開になるような気がしていた。解雇を告げられた時は現実感がなく、淡々と受け入れ、書類にサインをした。

 飾水を探すために長い年月をかけて学び、訓練してきた日々は何だったのだろう。捜索職員として正式に活動できるようになってから僅か三年で、雪路は機関を去ることとなった。

 その後の宛てがなかった雪路は、残っているかどうかも分からない故郷の家へ帰ってみることにする。都市の中心部から故郷の町まで、車を飛ばしても半日以上かかる距離を徒歩で行こうと思えてしまうのだから、自暴自棄とはいえ随分とタフになってしまったものだ。首輪が外れたのだから、どこまでだって行けるだろう。

 途方も無く続く故郷への道を行きながら、雪路は心の片隅で安堵さえしていた。青い霧の中に入る資格を、必然性を失ったことに。

 雪路の脳裏には、あの時耳にした水の中を歩く音と、それを強調する川のせせらぎが焼き付いて消えなかった――。


 結局、夜になっても熱の下がり切らなかった雪路は、翌朝までソファの上で過ごした。

「……なんだ、早いな」

「違うよ、親方はもう準備して行っちゃったの。おはよう」

 雪路が目覚めると、居間には遼遠がいて髪を結っているところだった。時計を確認すると、いつもならもう雪路も朝食を済ませている時間だ。

「喉、マシになったな。顔色も」

 遼遠に指摘され、自分の体調がかなり回復していることに気付く。喉の痛みは殆ど治まっており、身体を起こす時の辛さもない。まだ頭が目覚めきっていないが、今日は動けそうだ。

「まずい、俺も支度しないと……」

「いいよ、病み上がりだし。本当に大丈夫そうなら午後から入ってくれればいい」

 身支度を済ませ、遼遠は立ち上がる。

「俺もう行くけど、あと大丈夫?」

「なあ、遼遠」

「何?」

「お前のせいじゃないからな、俺が風邪引いたのは」

 遼遠に返事をするためにわざわざ雪の中を歩いた。けれどそれは雪路がそうしたかったからで、遼遠のせいではない。だから結果的に雪路が風邪を引いてしまったのは、雪路に責任がある。

 遼遠は口をぽかんと開けて言葉を失う。何度か瞬きを繰り返して意味を理解すると、唐突にくすくすと笑い出した。

「お前もそれなりの心配性だよ」

 じゃあな、と居間を後にする遼遠。

 残された雪路はおもむろに立ち上がり、台所へ向かった。まだ若干喉に違和感があるので、親方の分けてくれたはちみつをあともう少しだけ貰おうと思った。

 台所には窓から白い光が差し込んでいる。瓶からはちみつをひとさじ掬い上げると、透き通ったオレンジ色がきらきらと瞬いていた。

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