ふと窓の外を見ると、庭の雑草の一枚一枚の葉に霜が降り、淡く光っていた。
冬の始まりを感じさせる朝だった。
雪路が寝泊まりしているのは三階の、手洗い場がついているだけの小さな部屋だ。入り口に「桔梗家具店」と綴られた木造建てのこの建物は、一階から二階は家具や調度品の販売フロアになっていて、最上階であるここは従業員の寝室と物置き部屋が並んでいる。この階で暮らしているのは、今のところ雪路しかいない。店の隣に工房を兼ねた平屋があり、そこに“親方”とその跡継ぎが暮らしている。
周辺には同様に一階が店舗、二階が住居スペースというような建物が多い。小さな田舎町の中心部、様々な店の集まる敷地の一角にこの家具店はあった。
周りの家々も恐らく窓辺からの薄白い景色にしばらく見惚れているだろう。
風はなく、町は時が止まっているかのように静かだった。
再び視線を庭の方に降ろすと、この店に向かって歩いてくる人影がひとつあった。
どうも商店街の人間には見えなかった。
客だとしてもどの店も開店まで数時間はあり、ここも例外ではない。不審に思って目で追うが、やはりこの家具店を目指しているようである。
雪路は窓から顔を離し、手洗い場で蛇口を捻った。冷えた水を三度顔に掛けて、寝間着を捲り上げて拭う。濡れた衣類を篭に投げ入れて、いつもの作業着に着替えた。部屋を出て、急いで階段を下る。
正面入り口の前に人影はなかった。念のため外へ出てみる。
すると、店前の植え込みの陰に人が一人佇んでいた。
先に親方たちに知らせるべきかと逡巡したが、この寒空の下で無視するのも気が引ける。雪路は恐る恐る声をかけた。
「すみません。ここの店の者なんですが、何か御用でしょうか」
頭に苔色のベレー帽を乗せて、小さな鞄を肩に掛けた客だった。小柄で、歳は初老に見える。見かけない顔だ。
客は雪路の姿に驚き、軽くお辞儀をした。
「これは失礼しました。時間を間違えてしまって、早くに着いてしまったのです。わたくしはここで開くのを待っていますから、どうぞお気になさらず」
「ここで待つって……。まだ寒いですけど中に入ってください。今からストーブに火を点けますから」
田舎町に似合わない気品の高さを兼ね備えた人物に見えた。ここまで一人で歩いてきたとは思えない。こんな時間に現れたことも含めて、違和感を感じずにはいられない。
旅行者だろうかという考えが過るが、何故こんな田舎に来ているのかという疑問はやはり消えない。
雪路は客を正面入り口から案内して、フロアの隅に設置されたストーブに駆け寄る。部屋を暖めるにはまだまだ時間がかかってしまう。
「あなた、ここの人なんですよね?」
着火の準備に手間取っていると、背後から客が話しかけてきた。
「はい、でも見習いというか。店主が隣の工房におりますから、呼んできましょうか?」
「いえ、いいんです。あなたにお願いすることにしましたから」
「え?」
客の言葉に思わず手を止める。見ると、客は鞄から万年筆と紙切れを出して、店のカウンターで何かを書いていた。
雪路は手渡されたメモを受けとる。
「そこにある日時にまたお伺いしますから、それまでに花を作っていただきたいのです」
客は華奢な右手を胸の前まで持ってくると、指を花弁に見立てるようにして微かに動かした。
「――例えば、そう、白百合を」
「なんですって?」
雪路は面食らった。
「うちは家具の販売と修繕をしているのですが……」
「ええ、そのようですね。ですが、多少調度品の取り扱いもあるようですし、あなたはここで職人をしておられるように見えましたから。是非お願いしたいのです」
「いえ、そういったことは店主と相談してみないとどうにも……」
桔梗家具店の商品は一部を除いて工房での手作りだ。その多くは店主である親方が担っており、オーダーメイドの注文も受けている。だが、この客の依頼は妙だった。
「どんな素材や形でも良いので、“枯れない白百合”を用意していただきたいのです。わたくしが片手で持ち帰れるような大きさであれば、構いませんから」
有無を言わさず迫ってくる客に、雪路はたじろいだ。客はさらに「こちらは事前報酬ですが……」と鞄を探り始め、話をどんどん進めようとする勢いは手に負えそうにない。
客にそこで待ってもらうように言い、雪路は工房へ助けを求めに走った。
工房の奥でちょうど身支度をしていた親方を呼び、店の方へ戻ってみると、なんと客の姿は消えてしまっていた。
カウンターには、先程聞こえた事前報酬と思われる紙幣が何枚か置かれている。添えられた書き置きによると、納品後にもこれと同額の支払いがあるらしい。
理解が追い付かない。雪路は自分が寝ぼけている可能性に懸けたかったが、手元のメモとカウンターに置かれたものが疑いようもない証拠である。
「な、何でこんなことに」
「それはこっちの台詞だ。どうして最初に私を呼ばなかった」
背中に突き刺さる氷柱のような声。店の前を見回ってきた親方が戻ってきていた。
親方の鋭い視線はカウンターに向かう。
「雪路、お客様から報酬をいただいたからには――」
「やらなきゃ、いけないですよね……」
「当たり前だ」
声の怒気は抑えられているが、この状況で怒らず呆れもしないということはないだろう。親方は朝から頭に血を上らせていた。
これ以上何を言っても怒られるだけだ。雪路はあの不思議な客のことをもう一度詳細に説明し直したい気持ちをぐっと堪えて、手の中のメモ書きを見つめるしかなかった。
「でも結果的に、雪路がやることになって良かったんじゃない?」
その日の晩、食卓に料理を運んできたアンリが雪路に微笑みかけた。
店に隣接した工房は、親方とその跡取り――アンリの住居を兼ねている。居間や台所、寝室といった居住のための間取りが、工房の端にくっついている建物なのだ。
寝泊まりする部屋こそ別棟ではあるが、ここに居候させてもらっている雪路は工房の親方たちと三人で食事をとることになっている。
「簡単に言わないでくれ。二週間しかないんだぞ?」
思わず弱音を吐いたが、黙って食事を口に運んでいた親方の視線が雪路の頬に刺さる。
親方は以前、雪路の育て親と親交があった。雪路の親・飾水(かざみ)は樹脂や蝋などを使ってオブジェを作ることを生業としていて、親方の店に作品を置かせて貰えないか頼みに行っていたのだという。特に得意としていたのは草花を表現したもので、親方と今は亡き大親方は作品を気に入り、店の売り場の一角を貸していた。自宅のアトリエから移した作品のいくつかが、今でも桔梗家具店に残っている。
飾水と雪路がかつて暮らしていた家は町はずれを行った先にあるが、今は誰も暮らしていない。飾水は雪路が六歳の時に行方不明になっていた。雪路は飾水の跡を継ぐ予定で育てられていたが、道具の使い方も何も満足に教わる前に一人残されてしまった。
例の客が依頼してきたものは「枯れない白百合」。飾水の仕事を見て育ってきた雪路の方が、無骨に家具を作っている二人より適任であるとアンリは言いたいようだが、雪路はこの工房に入ってまだ四年余り。ここでの仕事にようやく慣れてきた程度の素人なのである。
アンリは頭上に何かを思い浮かべる仕草を見せて言う。
「俺が出来るのは木に飾りを彫るくらいだから力になれないかもしれないけど、何かあったら手伝うからさ」
「俺もそれの単調なものしか出来ないし、アンリの方が上手いだろ」
「そうかなあ」
雪路が幼い頃、飾水が家具店を訪ねる際によく一緒について行ったため、幼いアンリとは何度か会っていた。狭く人口の多くない町の中では貴重な同い年の友人であった。頻繁に会うわけではなかったが幼馴染と言えなくもない。
飾水が姿を消してから雪路は訳あって都市の方で生活していたが、四年前に再会した時もアンリは雪路のことをしっかりと覚えており、ブランクなんて無かったかのように親しく接してくれる。親方も親方で雪路の面倒を見る優しさがあることは重々理解しているのだが、今は柔和な空気を絶やさないアンリの存在が救いである。
「お客さんは他に何も言ってなかったのか?」
「さっき話したので全部だよ」
ただでさえ情報がないのに客の連絡先も、名前すらも分からない。これでも依頼として成立しているのか。
様子を見ていた親方も、頭の片隅にあった疑問を雪路に投げかける。
「どこに飾るとか、誰かに贈るとかもなかったのか」
「ないです」
どうしろと……。食卓に横たわる沈黙に、各々の音にならない呻きが滲むようだった。
茶を飲み干した親方が言う。
「休日返上でやるしかないだろうな」
それは雪路も薄々分かっていたことだが、言葉にされると一層気が重くなった。
店の定休日までを待ち遠しく過ごしていると、依頼から既に三日が経過していた。
雪路は朝から商店街にある古書店を訪れた。雪路より一回り歳上の店主が一人で経営している小さな店である。
花の咲かない季節に花を作れと言われるとは。いや、花がないからこそ花を求めるのか――。今野山を歩いても百合を見かけることは出来ない。写真でも絵でもいいからまず白百合のイメージを得なければ、全く仕事が進みそうにない。
大雑把な分類の本棚を物色して、図鑑の背表紙のある一帯を探していると、店主がやってきて声をかけてきた。
「もしかして白百合を探してる?」
店主は掃除の最中だったようで、バンダナを巻いて長い髪を後ろに流している。片手に布巾を握ったままだ。
「どうしてそれを」
「お客さん桔梗さんちのだよね。この前うちにも来たんだよ、白百合が欲しいって言うお客が」
話を聞くと、どうも例の客はこの町の様々な店に見境なく同じ依頼をしているらしい。来店した日はまちまちで、何日かに渡って依頼して回ったようだ。
奇妙な依頼であったため町で噂になっており、白百合の載った図鑑や写真を探す客をこの古書店で既に何人も見かけているのだという。
「だからもううちに図鑑は残ってないよ、そう何冊もあるものじゃないし。関係ない棚にうっかり混ざっているとかでもないとね」
「そんな……」
「昔話みたいだよね。お金持ちの人がさ、この世にあるかも分からない貴重な品を色んな人間に用意させるなんて。まともに受けたら何か良くないことがあるんじゃないかって思うよ」
そこまで言うと、店主はきょろきょろと周囲を見渡して他に人気がないか確認した。すると、雪路に顔を近づけて小声でこう告げる。
「あのお客の素性が気になって跡をつけてみた人がいるんだけど、西の雑木林の方に入っていったのを見たらしい」
雪路は驚きに目を見開いて、店主の顔を見た。
町の西方にはなだらかな土地が続いており、その先には雑木林が広がっている。
この辺りに暮らしている人間はその雑木林に近づかない。林を抜けた向こうには山があり、その麓には霧の立ち込める森があるからだ。そこにあるのはただの霧ではない。快晴時の空の色を何日も煮詰めて飴状にしたような、不気味な青色の霧である。
雪路は咄嗟に無難な返答を探した。
「嘘でしょう」
「いいや、嘘をついているようには見えなかった。……だから、出来ることならあまり関わらない方がいいんじゃないかと思って」
雪路はひどい胸騒ぎを覚えた。青い霧に立ち入ろうという想像すらないこの町の人の多くは「気味が悪い」で済ませられるかもしれないが、雪路にはそうはいかない事情があった。これは、白百合を用意するどころの話ではなくなってきている。
「ここにも依頼が来たんですよね。そちらはどうするんです」
店主は肩をすくめた。
「前金をそっくりお返しして、深く頭を下げるしかない」
その後雪路は店内の棚をくまなく探し回ったが、目当てのものは見つからなかった。落胆したが、それよりも店主から聞いた話で思考が一杯になっている。
不気味な青い霧は、何もこの町の近辺だけで見られるものではない。各地に大昔から霧が立つ土地があり、森のような障害物が密集した場所や、谷のような陥没した地形に一度流れ込むとそれはずっと消えることがない。青い霧は長い年月をかけて徐々に拡大しており、人の生活できる土地を奪い続けている原因不明の現象である。
霧に覆われた土地は人間の生存に適さない。長期に渡って青い霧を吸い込むと身体に害があるからだ。加えて、微粒子状の青い顔料を頭上からどっさりとひっくり返したような視界となるため、大抵はすぐに方向感覚を失って遭難してしまう。普通の人間が軽い気持ちで立ち入るのは命に関わる。
以上のことは誰しもが知っていることだが、雪路は青い霧について人よりも知識を持っていた。この町の西にあるポイントとは違うが、雪路は青い霧のある地帯を何度も歩いたことがある。幼少の頃、育て親である飾水と生き別れたのがまさに青い霧に包まれた森の中だったからだ。そして、飾水の行方を捜して何度も霧のあるポイントへ出入りしてきた。
飾水は未だに遺体すら見つかっていない。霧の中で消息を絶った場合生存の可能性はかなり低いため、世間的には死亡扱いになっている。今から十八年程前のことであるから、死んだと捉えるのが自然であろう。
だが雪路は未だに飾水が霧の中で――或いは人の手の届かない霧の向こうで――生きているような感覚にとらわれ続けていた。
これは霧に関連して親しい人を失った人間に現れ得る典型的な思い込みで、これによって残された側が無闇に霧の中へ入るようになり、次の行方不明者になってしまう場合が多い。
例の客がもし本当に雑木林の先の青い霧に出入りしていたのだとしたら。霧の中、或いはその向こうに人の暮らせる環境が残っていたのだとしたら。有り得ない空想や願望がたった一つの噂話によって現実と繋がり始め、雪路を激しく動揺させた。
古書店を後にしてすぐ噂の雑木林の方に足が向かいそうになったが、一度冷静になって引き返す。森以前に雑木林自体も広大で、人が普段立ち入らないせいで道も悪いだろう。例の客が周辺をうろついているという確証もないし、思いつきで行くような場所ではない。
今探さなくても、期日になれば例の客は品を受け取りに店に直接やって来るのだ。気になることがあればその時に聞けばいい。そのためにもまずは、頼まれたものを作らなくては。
一度戻って頭を冷やそう。雪路は生きた心地がせず、小川の中を遡るような足取りで家具店へ向かった。
桔梗家具店に隣接した工房。その奥の玄関から居間に上がり、三人掛けのソファに身を投げた。全体重をソファに預けるようにして徐々に手足の筋肉を弛緩させる。
ぼんやりと天井を見ていると、どこかの戸が開く音がして居間に向かって足音が近づいてくるのが聞こえた。この歩き方は恐らく親方のものだった。
「雪路、ちょっと来い」
現れた親方は居間をのぞき込み、ぐったりしている雪路を呼んだ。
雪路は気だるさを振り払い、反動をつけるようにして無理やり立ち上がる。返事も待たずに歩いて行ってしまう親方の後を追った。
玄関を出て工房を抜け、裏口から隣接する店の中に入る。先に中に入っていた親方が、小さな紙切れを持って引き返してきた。
黙って突き出されるそれを受け取る。見ると、古い写真だった。
「これ……」
「もう現物はここにないが、売れる前に撮っていたものがあった」
かつて飾水が手掛け、この店に預けていた白く輝くオブジェがそこには映っていた。照明で白飛びしているが、特徴的な花弁の形は白百合のそれであることが分かる。咲き乱れる白百合が伸びやかに螺旋を描くような配置になっており、ベールのような意匠も組み合わされていた。
店に残っている飾水の作品は目にしていたが、この作品を雪路が見るのは初めてだった。先程まで飾水のことを考えていたのもあって、胸に迫るものがある。
「親方、もしかして探してくれたんですか。助かります。ありがとうございます」
「ふと思い出して物置きを奥から掘り返したんだ。これを作れって言うんじゃないが、何もないよりはいいだろ」
親方の言葉に頷く雪路。その時、頭の中にスゥと風が抜けていくような心地がして、思考が鮮明になった。
「……そうだ。それですよ、親方!」
アンリは寝室で昼寝をしていたようだった。声を掛けてしばらくすると、部屋から顔を出した。
「あ、雪路。どう、順調?」
「アンリ、今年自生してる百合をどこかで見かけたか」
単刀直入に問われてアンリはぽかんとしたまま固まった。時間をかけて言われた言葉を飲み込み終わると、腕を組んで思案し始める。
「うーん、どうだろう。木を切りに行ったときに見かけたような気もするし、違う花だったかもしれない」
「俺はいくつか心当たりがある」
「でも今は……」
「花じゃなくていい。球根を探したいんだ」
あっ、とアンリは声をこぼした。
「球根か……成程。いいアイデアかもしれない」
昼食を済ませた後、雪路とアンリは工房の裏手から見える藪まで歩いた。雪路が思い当たる中でここから近く、球根を掘り返したとしても問題がなさそうな場所の候補はそこだった。二人の手には店から持ち出したシャベルとバケツ、そして草刈鎌がある。
「でもすごくないか。咲いてた場所を覚えてるなんて」
「場所はざっくりだよ。花を見るのは好きだったんだ、昔から」
昔、まだ飾水と何事もなく暮らしていた頃のことだ。飾水が摘んできた花や、作品作りのために取り寄せた花が家の中に置かれていることはしばしばあった。
幼い雪路は勝手に花瓶から引き抜いたり、スケッチのために並べてあったものを動かす悪戯をしていたので、飾水によく叱られたものだ。「お前は花を枯らせるから触るな」と――。
ほどなくして、目的地の藪に着く。
一帯が背の高い草だらけだが、雪が本格的に降り始める前の時期だったのはせめてもの救いだ。咲いていたはずの白百合はこの季節にはもう花と草が枯れてしまっていて、残った茎が恐らく草木の中に紛れている。一見しただけではどこにあったのか分からない。
自分たちの持って来た道具と藪を交互に見たアンリが言った。
「いいアイデアだなんて言っちゃったけど、……本当に見つけられると思う?」
「わからない。今日探して見つからなかったら諦める」
球根が見つかっても見つからなくても、今日明日を目途に作業を始めなければ指定された期日に間に合いそうにない。
雪路の記憶では、自生する白百合はバラバラに分散しているのではなく、ある程度のグループを形成するように群生して咲いていたはずだ。土地は広いが、それらしき茎の根本を掘り起こしていけば球根を掘り当てることもなくはないと考えていた。いざ現場を見ると気後れは感じるのだが。
「いいのか、せっかくの休みにこんなこと頼んで」
「手伝うって言ったのは俺だし。それにお前一人でやってたら不審がられるだろ」
「……それはそうだけど、普通はその方が早く終わるとか言うんじゃないのか」
「心配してるんだけどな」
会話もそこそこに、手分けして目的のものを探し始める。
二人ともこういった緑の生い茂る場所に入るのは慣れているが、姿勢を低くして地面に紛れたものを探すのは困難であるし、楽しいものではない。枯れた草の先や枝が体に刺さるので、適度に草刈鎌で切り落としながら進む。
雪路は途中枯れた白百合らしきものを見つけて手に取ったが、笹の仲間だった。探すにつれて目が慣れていくどころか、混沌と入り乱れた草木を見分けるための集中力が落ち、関係のないものを白百合に見間違うことが増えていく。
白百合の花は強い香りがするが、球根に匂いはあるのだろうか。あったとしたら、それを覚えた動物に今すぐ埋まっている場所を当ててもらいたい。そんな現実逃避すら混じり始めていたところで、ついに白百合の茎らしきものが草の陰に倒れているのを見つけた。
シャベルを構え、地面の中にある球根を傷つけないように間合いを見計らって地面に突き立てる。もう一度勢いをつけて地面を突き、今度はシャベルに足を掛けて深く押し込んだ。柄を俄かにしならせながらシャベルを倒し、球根の周りの土ごと大きく掘り返す。
傷つけないよう慎重に手で根本の土を払うと、確かに百合の球根だった。
「あった……」
雪路は大きく息をついてその場にしゃがみ込む。手の中にある白い蕾のようなものをまじまじと眺めた。これが花が枯れた後も土の中で生き、次の花を咲かせる枯れない白百合である。
球根の上に残っている茎を切り落とし、掘り返した周囲の土をさらに崩してバケツに詰める。バケツは鉢代わりだ。その中に球根を入れ、優しく土を被せた。
雪路は掘った穴を足で適当に均し、離れた位置でまだ探し回っているだろうアンリのもとへ向かった。
アンリの背丈が高いこともあり、草木の中に隠れていてもすぐに見つけられた。
「良かった、雪路も見つけられたんだ」
アンリはなんと球根を四つも収穫していた。群生していたポイントを運良く見つけられたらしい。
見つけたなら先に教えてくれと雪路が嘆いたが、見本が沢山手に入った方が良いだろうとそのまま探すのを続行していたらしい。雪路が球根を見つけた場所も探し続ければまだいくつか見つかったかもしれないが、取り尽くすつもりでは来ていないのだ。まだ探すつもりでいるアンリを引き留め、藪を出た。
「こんなに見つけてくれたのは嬉しいけど、これまた埋めに戻るんだからな?」
「ゼロから探すよりは楽だよ」
アンリは朗らかに答えた。
例の客は宣言した通りの日付の昼下がりにやって来た。苔色のベレー帽と、小さな鞄を身に着けて。
雪路は早速約束の品を渡す。白百合の球根を木彫で作り、木目が残る程度に彩色を施したものだった。球根の花弁のような独特のディティールまでは雪路の手では再現しきれず、大きさも実際のものより大きい。正直なところ、荒い作りであると言わざるを得ない。
加えて親方からは「屁理屈だ」と最もな指摘を頂戴したが、雪路本人がまだ芽も出ていない未熟者であるという作り手の感慨も込めて作品の味としていただきたいものだ。無茶苦茶な依頼を受けた代わりといっては何だが、こちらも多少無理を通してもいいだろうという気持ちが雪路にはあった。
この家具店はともかく、依頼を受けた様々な店は何を用意したのだろう。ふと興味が湧くが、品を用意し終わった雪路にとっては最早重要なものではない。この客については、それよりももっと気になることがある。
「成程、これは球根ということですね」
箱の中の物を確認した客は、雪路の目を見てにっこりと微笑む。
「素敵な白百合をありがとう。大切にします」
雪路は会話を切り出すタイミングを探っていた。
だがよく考えると、この客は雪路の前では雑木林や霧に行き来しているようなことを一切言っていない。情報源がそもそも噂話でしかないし、もし本当にそれらに関係があるとしても、普通は隠すだろう。ここで雪路がいきなり踏み込んだことを聞いても意味がない。
しかも、今回の受け渡しに際して親方が店の方に来ているのだ。不躾な真似をするのは躊躇われる。
約束通りの報酬を受け取り、客を店の外まで見送った。
内心とても焦れったい。このままでは見失い、後でこっそり抜け出して追いかけるということもできない。どうにか客をこの場から追いかけて――そしてあわよくば霧の中に入る現場を押さえて――話を聞けないだろうか。咄嗟にあることを閃いた雪路は、その場で間抜けな声を出した。
「ああっ! 親方、大変です! 頂いたお金、数え直してみたら約束の額より一枚多いんです。俺、追いかけて返して来ます!」
親方の「ちゃんと確認しろと言っているだろ! さっさと行ってこい!」という声を背に、雪路は走り出した。
例の客は商店街のいくつかの店を訪ね、腕に紙袋を増やしてはまた次の店へ行った。注文した白百合を受け取って回っているのだ。
雪路は物陰に隠れつつ跡をつけるが、商店街には顔見知りも多い。こんなことをしている姿を親方に告げ口されては事なので、出来れば早く用事を終わらせてほしいと雪路は念じた。
一時間半ほどかけて町を巡った客は、噂通り町の西方へ向かって足取りを進めた。
町はずれまで来て風景が閑散としてくると、遮蔽物が減って今度は尾行がやりづらい。見失わないようにしつつ、十分な距離を保って雪路は歩き続ける。
客を雑木林まで追った人間がいるというが、相当根性がある人物に違いない。或いは追いかけた人間など最初からいなかったのか。ここまで来て噂が出まかせであるという可能性を雪路は直視できない。
見どころのない長い田舎道を行き、客のゆったりした歩調に合わせて進んでいると、あれから更に一時間程経っていた。
だが前方にはついに例の雑木林が見えてくる。
道は雑木林の近くまで伸びているが、人が入る場所ではないため碌な入り口が用意されていない。それどころか周辺に杭とロープが張られ、入ろうとする人間に暗に警告を示している。そんな場所にわざわざ入るのであれば相当怪しい。
早まるばかりの鼓動を抑え、雪路は客の後ろ姿を瞬きせずに見守った。
客は周囲を警戒する様子もなく両手一杯の紙袋を抱え込むように持ち上げ、まるでそうするのが自然だとばかりにロープを跨いだではないか。
途端、雪路はこれまでの慎重な足取りを止めて走り出した。木々の中に消えていく客の背を全速力で追いかける。
あの客は間違いなく怪しい。きっと霧の中のことを知っている。ここまで来て林の中で見失ってしまったら全てが水の泡だ。雑木林の先には青い霧の立ち込める森がある。もし本当に森へ入っていくつもりなら、林を行く間に客に追いつかなければやはり森に逃げられて見失ってしまう。
ようやくロープのある場所まで辿り着き、それをひらりと飛び越えて客が消えていった方向へ真っすぐ進んだ。既に客の姿は視界から消えており、雪路に焦りが増す。森の方角へ向かっているという予想に懸け、伸び放題の草木を搔き分けてなおも走った。
走り出してから時間の間隔が分からなくなっていた。日が傾き始めているのは見て分かるが、冬の間の日の短さでは感覚的に把握できない。
これだけ雪路が走って追いつけないということは、やはり方角を間違っていたのだろうか。流石に息が切れてしまい、前のめりになって立ち止まった。こんなに走り続けたことはここ数年なかったため、酷く胸が痛む。
必死に呼吸を落ち着かせていると、雪路はある違和感を覚えた。
自分が白い色のものを身に着けていないか慌てて探る。上着のポケットの中に、あの客の渡したメモ書きが潰れて入っていた。広げて、何も書かれていない部分を暫く見つめる。
「……青い」
景色全体が、僅かながら青みを帯びていた。日が傾きかけ薄暗い状況であるとしても、目の錯覚とは言い難い。
森に漂っている霧が微量ながら雑木林まで流れてきているのだ。向かっている方向が森へ近づいていることは明らかだった。
方角は合っていたが、町を霧から守っているはずのこの雑木林にまで霧が入り始めている状況にはぞっとする。
雪路は左腕の袖口を引き出し、鼻と口を覆った。微量であるとはいえ青い霧を直に吸い続けるのはまずい。じきに日も暮れる上に、客も恐らく完全に見失ってしまった。この状況では諦める他ないのか。
その時、前方に生き物の気配を感じた。全くの唐突であった。それまで足音もしなかったにも関わらず、大きな木の陰に人がいるように思われた。もしや。
「林に入れば、誰でも諦めてくれると思ったのですが」
あの客の声だった。ここまで良く聞こえるということは、相手はマスクも何もしていないのだろうか。
雪路は迷いつつも喋る瞬間だけ袖を口から離し、気配に向かって声を張る。
「跡をつけてすみません」
「道を忘れる前に早く帰ってしまいなさい」
店で見せた笑みとは結びつかない、淡々として冷ややかな響きだった。
「ええ、そうします。けれど、少しだけ話してもらえませんか。どうして白百合を作らせたのか」
「大したことではありません。わたくしは花が好きなので、様々な花に囲まれて過ごしたかったのです。人がその花を思って作ってくれるものなら何でも良かった。その向こう側にはそれぞれの思う花がありますから」
「冬は、花が殆ど見られませんしね」
「ええ」
雪路は徐々に抑えが効かなくなっていた。
「青い霧の中も、年中冷えるし日光が殆ど届かないから普通の草花は見れない。背の高い木々と、環境に適応した見慣れない草やきのこが少しあるくらいだ」
「……詳しいのですか?」
「実は何度か霧の中を歩き回ったことがあるんです。霧の中に消えていった人も何人も知っている」
興奮で息が荒くなる。合間に袖を当てて呼吸をすることさえ忘れて、雪路は続けた。
「あなたは霧の向こう側から来たのではありませんか? 霧の奥には、一体何があるんです」
客と思われる気配は沈黙した。
雑木林は最初からこんなに静かだっただろうか。雪路の耳には自分の呼吸と心臓が乱れる音が鮮明に聞こえるばかりであった。些か冷えてもきた。吐き出した瞬間の息が白く映る。
気配は、やはり冷たい声で言った。
「依頼に応えていただけたことには感謝しています。ですが早く戻りなさい。さようなら」
瞬間、客と思われる気配が林の奥へ溶けて消えた。
咄嗟に追いかけようとするが、何故か足が動かない。
ここを進むと森がある。あの青い霧が待っている。漠然とした恐怖感が雪路を縛っていた。
飾水に繋がる情報があるならこの手で掴みに行きたい。しかし雪路はもう既に霧の中で様々なことを経験しすぎていた。頭の中で警鐘が鳴る。もうあんな思いはしたくない。
雪路は袖のことを思い出し、口元を離さぬようにしながら、大きく息を吸った。
逡巡ののち、警告の通り来た道を引き返す。日が殆ど沈みかけており、霧の有無に関係なく遭難の危険があった。
夢中になって走っていた道のりだったが、途中どう進んだかの方向感覚は雪路の体に染みついていて、難なくロープの場所まで戻ることができた。歩幅の制御も含めて訓練を積んだ雪路に出来る芸当であった。
薄霧の中から町の方へ戻っても、空気の冷たさはほとんど変わらなかった。
オレンジ色の街灯が数を増したところまで来て、雪路はほっとため息をつく。肺は霧の色に染まらず、白いもやを吐き出してくれた。
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