本編第八話後半頃。 穂波が遼遠に声のマーキングについて教える話。
「遼遠、キミにマーキング特有の響きを教えてあげようか」
雪路が青い霧の中にあるという集落へ向かうことが決まった夜。
桔梗家具店の面々に穂波と尾研を加えた何とも言い難い夕食を終えた後、車へ戻ろうとしていた穂波が思い出したように遼遠に声を掛けた。
台所で食器を片付けていた遼遠はその手を止める。
「――といっても、覚えられるか分からないし、放っておいてもいつか消えるものなんだけど」
と、遼遠の背後に歩み寄った穂波は付け足す。
雪路の声には飾水の催眠によって特徴的な響きがつけられているという。かなり微細なもので、催眠をかけられた本人にも自覚できない。その声は普通の人間の声と殆ど変わらなく聞こえるが、穂波のように集落に身を置く能力者にはその違いが分かるらしい。
マーキングが飾水の手によってつけられたものだとすれば、遅くとも雪路――ハルカが六歳の頃には声に変化が起こっていたはずである。
しかし、当時の遼遠――アンリにはハルカの声に違和感を持った記憶がない。ともすれば、二人が出会った頃にはすでにマーキングがつけられていた可能性もある。遼遠は雪路の本当の声というものを知らないのかもしれない。
声のマーキングは癖として定着させてしまうので一度掛けるとかなりの長い年月残り続けるものだというが、催眠を掛け直さず放置していればいつの日か解ける。
生活に支障がないとはいえ、催眠が掛かった状態が続いているのも居心地が悪いだろう。もし遼遠がその切り替わりに気付くことが出来れば、多少の安心材料にはなるはずだ。穂波はそう考えた。本人が声を客観的に捉えることは難しいので、身近にいる人間が聴き分ける方が分かりやすい。これだけで補えることではないが、今回の諸々に対する穂波からの僅かばかりの補填である。
雪路は明日の荷物をまとめる為に一度自室へ戻っている最中だ。今の内に遼遠に対してレクチャーを済ませられれば、雪路に自身の声について無闇に悩ませる恐れはない。
一方の遼遠は迷いつつも穂波の提案を受けることにした。今、遼遠は自分の不安の捌け口になりそうなことなら何でもしたかった。雪路の為になるなら、どんな突拍子のないことでも。
「教えてくれ」
遼遠は穂波を連れて居間へ移り、向き合う形で席に着く。親方と尾研は少し距離を置きつつ、二人のやりとりを見守った。
「この短時間では無理かもしれないし、聴き分けれらなくて余計に不安になるかもしれないよ?」
「いいよ、それでも」
遼遠の返答に穂波は頷き、マーキングの特徴をざっくりと説明した。
同一人物の声であっても、それが何も遮蔽物のない状態で発せられているか、マスクや壁などを通して発せられているかの聴き分けは容易である。催眠を用いて発せさせる声はその遮蔽物が限りなく薄くなった状態。透明なベールを纏っているようなイメージであると穂波は例えた。
或いは、発声に癖をつけさせるということは、本来掛けなくてもいい力が発声時に掛かっているということだ。自然な状態で発せられた声か、改まった場に応じて調整された声かどうかの聴き分けについても、遮蔽物の例と同等に難しいものではないだろう。マーキングされた声というのは、そういった〝作為的な響き〟がほんの僅かに含まれているのだという。
「じゃあ、実際にやってみるね」
相手にマーキングをつけるときは、相手に催眠を掛けつつ能力者が実際にその声を示しながら対象に真似をさせる。穂波はその例示部分のみを披露して独特の響きを遼遠に聴き取ってもらうことにした。
穂波は「んー」やら「あー」やらと言って喉を馴らした後、地声で出せる出来るだけ低い音域を探った。
「まずは何もない状態。〝遼遠〟。……そしてこっちがマーキングのある状態。〝遼遠〟」
「……ちょっと待て。何で俺の名前でやるんだ」
「だって、雪路が今後も日常的にキミに向かって言いそうな単語ってそれじゃん」
「……それは否定しないけど、そっちからそう呼ばれるのは別に嬉しくないっていうか……」
決していい印象ではない相手から何度も名前を呼ばれる。しかも全く似ていない雪路の声真似で、である。遼遠は一応穂波の教えを真面目に聞くつもりだったのだが、これでは集中出来ない。
穂波は肩をすくめた。
「仕方ないなあ。……じゃあ、普通の挨拶ね。〝おはよう〟。……次がマーキング。〝おはよう〟」
穂波は声のトーンを元に戻して、何度も「おはよう」と繰り返して言い続ける。
遼遠は特別に聴覚が良いというわけではない。穂波が交互に発声しているのでマーキング有りの声というものがどちらを指しているのかは分かるが、その違いはまるで理解出来ない。今この場では特徴が分かったような思い込みが得られるだけで、これからいざ二択を迫られて実際に聴き分けろと言われても、当てることは不可能に思われた。
「駄目だ、全然分からない……」
「やっぱり、いきなりだから難しいか……。僕も実際に人にマーキングしたことがあるわけじゃないから、この発声も折り紙付きってわけでもないしな」
あっ、と何か気付いた表情をして、穂波がテーブルに身を乗り出す。
「でも、僕の声が手本だから無理ってだけで、キミは雪路の声なら聴き慣れてるわけだからー。もしかしたら、遼遠には分かるかもしれないよ?」
穂波のにんまりとした笑みを、遼遠は胡散臭そうに見る。
「そうだといいんだけど」
そう答えて自信なく俯いた。
それから暫く遼遠は穂波の声を聴き比べていたが、響きの違いというものがあまりにも微細すぎて全く手応えがない。風邪で枯れた声かどうか聴き分けるのとは訳が違うのだ。かつて雪路が喉を痛めていた時のように、すぐに気づくことが出来れば良いのだが。
そうこうしていると、工房側に通じる玄関から物音が聞こえた。
雪路が自室での支度を済ませてこちらへ向かって来ているのだ。穂波と遼遠は口を閉じ、慌てて居住まいを直す。
直後に居間の戸が開き、一歩踏み入れた雪路がその場に立ち止まった。真っ先にテーブルで向かい合っている二人を確認した雪路が、穂波に鋭い視線を向ける。
「おい、穂波何してる。また遼遠に――」
「しないよ、もうそんなこと。さっきはごめんねって話をしてたの。……じゃあ、僕らは車に戻るから」
穂波はさっと立ち上がり、一部始終を見ていた尾研を連れて居間を出て行く。
二人が戸の向こうに消える直前、遼遠は穂波と一瞬目が合った。身についたかも分からない短い授業はここで終わり。これから先は自分で聴き分けろという、託すような視線。
こちらに歩み寄ってくる雪路を迎えるように、遼遠も席から立ち上がる。
「大丈夫か、遼遠」
「……ああ。全然」
早速遼遠は雪路の声にある特徴的な響きというものを見つけ出そうとしてみた。
しかし遼遠の予想通り、そこにあるはずのものは全く掴みどころが無く声の中に溶けており、感じ取ることは叶わなかった。
その後、雪路は過酷な青い霧の世界から無事に生還し、遼遠たちのいる日常へ戻って来た。
帰って来た当初の雪路は精神的に酷いダメージを負っていたように見受けられたが、現在はそんなことなど無かったかのように振舞っている。けれどそれは完治を意味している訳ではない。
遼遠は、雪路につけられた得体の知れない深い傷がそう簡単には消えないことを分かっていた。雪路が時折不安定な様子を見せることも知っている。一人で抱え込んでいる様子が痛々しくて、見ているこちらが先に堪えられなくなってしまいそうになる。
けれど雪路はその内面を遼遠に打ち明けることは無かった。雪路が望むことは遼遠と共にこの町で生きていくことだけ。いつも通りの穏やかな日常の中で過ごさせてやることが、遼遠に出来る数少ないことだった。
遼遠に出来ることといえば、もう一つ。
「おはよう」
やや遅れて起床した遼遠が台所に顔を出し、朝食の支度を始めていた親方と雪路に声を掛ける。手前にいた親方がすぐに「おはよう」と返して冷蔵庫を開け、調味料を物色し始めた。
その奥の流し台でまな板をすすいでいた雪路が、ちらりと遼遠を見て表情を緩める。
「おはよう」
いつも通りの自然体な声。遼遠に向けられた、少し丸い響きのある声。
遼遠はその何気ない挨拶に静かに耳を澄まし、小さく頷く。一度台所から顔を引っ込めて、すぐそばの洗面所へ向かった。
洗面台の鏡に映った自分と目が合う。眠気の晴れない気弱そうな目。遼遠は蛇口を捻り、指先で水の冷たさを確かめた。
雪路の声は、恐らくまだ治っていない。
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